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ひとひら小説「わたしの金魚」

800字の小説です。西荻窪に住んでいた頃に書きました。


温泉やプールに行くときは、紅いペディキュアを塗ると決めている。
水の中で揺らめくそれが、金魚みたいできれいだからだ。

チカちゃんに教えてもらった銭湯にきてみた。新しい家から徒歩4分。漢方風呂に電気風呂、小さな露天風呂まである。越して一年になるというのに、どうして気づかなかったのだろう。

チカちゃんは今ごろ、一緒に選んだ浴衣を着て花火大会だ。露天風呂の空は小さくて、花火の「は」の字もない。隣の男湯の話し声が途切れ途切れに聴こえるだけ。
ここは、やさしく護られている。

もともと人をひとり、丸ごと忘れるのは難しいことなのに、それが好きな人ならなおさらだ。
だから私はこの一年、自分が苦しいことはやめることにした。衣替えのときに、浴衣を出さないのもそのひとつ。

人混みが苦手な私たちはいつも、新聞屋さんからもらった入場券で小さな遊園地の花火を見にいった。
私が浴衣を着ると、あの人は何年経っても恥ずかしそうに見つめて、帰り道には手をつないでくれた。
「原田さんは浴衣だと、ふわふわ歩いて危ないから」
と、毎年同じよくわからない理由を言うのが可愛かった。
私をあんな風に見つめる人は、もういない。

いいことばかりを思い出すのは反則だ。
湧き上がる気持ちをそらして洗い場をながめる。いろんな女の人のはだか。おばあちゃん、おばさん、おかあさん、おねえさん、やせ、でぶ、だるだる、ぷりぷり、ぼてぼて、しわしわ。

この先わたしの体はどんな風になるのだろう。
誰かのかわいいやきれいには、もう二度となれない気がして、

「きれい」

振り向くと、
おばあさんが私を見ていた。

「踊りでもやってらした? 首がすっと長くてきれいよ」

「……ありがとうございます」
恥ずかしいのと嬉しいのでうつむくと、湯の中で金魚がぴちぴちと煌めいた。

やっぱり明日、あの浴衣を買おう。
チカちゃんの隣でこっそり見ていた白地に朝顔の浴衣。
なんの予定もないけれど、きっと、紅いペディキュアが似合うから。

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