ミュンヘンで名前を失くす
「変わってるよね」「人との距離近いよね」的なことを言われた時、「帰国子女だから」と答える。これは半分ジョーク。だって私、半年しかいなかったもの。
高校二年生のとき、親の仕事でドイツ・ミュンヘンへ行くことになった。
家族は1年そこにいたけど、私は半年以上欠席すると高校が留年になるため、半年経ったら、一人で日本へ戻って、家族が帰るまでお留守番することになっていた。
ほかの兄弟は現地の学校へ通っていたけど、私は義務教育外の年齢だったため、お金がかかるから学校にも通わなかった。
つまり半年間、ミュンヘンでニートだった。
学校に行ってないと、友達も作れないので、基本一人で美術館や公園をブラブラしていた。なんと贅沢な時間だったんだろう。
ある朝、起きたら雪が積もっていた。
私は一人で国立公園へ散歩に行った。
馬車も通るほどの広大な公園、というか、森だ。
雪の降った早朝に、森に来る人はいなかった。
少し歩くと、野原に出て、
そこは見渡す限り、真っ白だった。
色を持っているのは、私だけだった。
圧倒的に、ひとりぼっちだった。
家を出るとき、家族に言ってこなかった。
もし私がここで死んだら、だあれも私のことわからないな、と思った。
この国には、私の名前を知っている人が、だあれもいない。
私はどこにも所属していない。家族にも、学校にも、国にも、どこにも。
その時、気づいた。
私の名前は、誰かが呼ぶから私の名前になる。
私と名前はくっついているとおもっていたけど、
「私」には、名前なんてなかったんだ。
だから、なんにでもなれる。
どんな、名前にもなれる。
どう呼ばれるかは、私が決められるんだ。
すごい発見だった。
圧倒的に、ひとりぼっちで、さみしくて、幸せだった。
帰国後、私は人懐っこさが渡欧前の50倍くらいになった。
ここは母国。
相手の話している言葉がわかって、こっちの話している言葉も通じる。
それなのに、繋がらないなんてもったいない。
そして、相手の肩書が全く気にならなくなった。
その人は、その「人」なだけで、肩書きはその人ではないから。
社会通念上、わざわざ表明はしないけど、
根底はマジのマジで、「人類みな、ただの人」と思ってる。
これはいい方に転ぶことのほうが多いけど、悪い方に転ぶこともある。
慣れ慣れしいとか、生意気とか、傲慢とか、上からとか、
そういうふうに受け取られることもある。
でもだいたい、うまくいく。
みんなだって、みんなと仲良くしたいから。
「仲良くしたい」から始まっているはずだから。
ある日、ミュンヘンの雪の野原に、名前を失くしてきた。
無限な私になった。
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