見出し画像

【特別公開】第六回深大寺恋物語 審査員特別賞「象のささくれ」

連載「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」の特別編として、深大寺恋物語で選考委員を務める井上荒野さんにお話を伺いました。
こちらを記念し、今回、特別に不肖・私めの受賞作「象のささくれ」転載のご許可を事務局様よりいただきました。
あくまで2010年時点での水準ですが、「ふーん、これで審査員特別賞か」「10枚だとこれくらいか」「これなら私の方が巧いわい」などなど目安や奮起の材料になれば幸いです。あらためて書き起こしてみると、たいへんこっぱずかしいのですが、14年前の作品ということでお目こぼしをば……。


「象のささくれ」  清繭子

 深大寺を象がゆく
 と、つぶやいてみる。前を歩いている人は、さっきから大きな背中をゆったりと左右に揺らして、雑木林の中を進んでいる。だから私もその後ろをゆっくり歩くしかない。隣に並んでしまわないように。
 なんでこんなことになってるんだろう。
 昨日の夜までは、たしかに捨てられた私だった。というか、そもそも、男の子と映画を見に行く私、だったはずだ。好きな子に捨てられたからどうでもいい子で予定を埋める私、だったはずだ。
 前を歩く豊田君を眺めながら、あの人のからだを思い出してみる。
 だけど浮かんだのは、さっきそばを食べたときの豊田君の唇だった。小さな正三角形にめくれた、透明な唇の一片。
 つゆ、痛くなかったろうか。そんでもって私、なんであんなことしちゃったんだろう。
 やわらかく湿った葉っぱの影に五月の光が重なって、豊田君のうなじの上を揺れている。
 この人と昨日、寝たんだ。
 そんなことが噓みたいに、さらりと健やかな豊田君のくび。
 起きたとき、まずい、と思った。自分のあほさに泣きたくなった。豊田君に謝られたくない。だから言った。
「なんか、ごめんね」
 豊田君はなんの返事もせずに、ベッドから立ち上がった。
「あ、帰るの?」
と聞いた。帰ります、と言われたくなかったからだ。豊田君はじっと私を見て、
「僕、今日シフト入ってないンデスヨ」
 と、パンツ1枚のままソファに座った。
 それで、こうしてなぜかここにいる。あの人と何度も来た植物園を、別の男の人と歩いている。
「さっきの……そば」
 突然、豊田君が振り返って言う。
「え?」
「高橋さん、さっき……アノ……さっき」
 豊田君は歩くのも遅いけど、話すのはもっと遅い。それなのに昨日のあのすばやさはなんだったんだろう。
「そばが〈きれいな水〉なんだって――」
 あ、
「……うん」
 それは、私が言ったことじゃない。熱燗二合で酔っ払ったあの人が見つけた言葉だ。――これってもはや、そばじゃないよな。きれいで透明な水が、すっとからだの真ん中を通っていく。そんな味だ――あの人の得意気な顔。かわいい、かわいい。私の言葉はまだ、あの人でできている。
 豊田君はくびに手を当ててはにかんだ。
「この植物園もそんな気がシマセんか」
 胸が、ざわつく。
「アノ……。ここも、さっきの深大寺も、この街全部が、きれいな、つめたい……」
 なにを言ってるの。
 突然こみあげてきた強い否定の感情に、思わず豊田君を見る。
 塗り替えないでよ。
 豊田君は照れ隠しに笑った。急に笑ったから変な声になった。その自分の声にまた笑って、固まった私の顔をちらっと見て、歩き出す。発掘されかかった羽みたいな肩甲骨が、ゆらゆらと左右にゆれる。
 きれい。
 どうして男の人はみんなきれいなんだろう。私はいつもくやしくなる。
「あっ、植物園っぽくなッテきた、いや、アノ、きました、ね」
 唐突に雑木林は終わって、いつのまにか私たちは丘の上にいる。丘の先に広大なばら園が広がっている。
「どっかのクニの宮殿みたイだ」
 噴水を囲むように何十種類ものばらが植えられている。奥にある半透明の建物は、宮殿ではなく温室だ。
 そうだ。ここだった。私、どうしてここにこの人を連れてきたんだろう。
 ばらにはそれぞれ品種名を書いた札が立ててある。モンパルナス、ブルーライト、かぐや姫、マダムヒデ……。

 あの日、あの人は、熱燗二合の勢いのまま「ばらクイズしよう」と言った。ばらの名前をでたらめに作るのだ。暗くどろりとした赤のばらはシャンソン歌手の名前、白いふちどりのある軽いピンクのばらはアイドルグループの名前。要するに連想ゲームだ。そのうち、あの人は知り合いの名前をつけはじめた。私はどきどきしながら、自分の名前をつけてもらえるのを待っていた。
 大丈夫。ただ寝るだけの相手だったら、次の日に植物園なんか連れて行かないよ。とっておきの蕎麦屋を教えたりしないよ。「それが二人のお決まりのコース」みたいに、何度もここへ来たりしないよ。歩調を合わせて隣に並んでも、手はつないでくれないけど、それはしょうがない。だってしょうがない。
「ああ、これ。これだよ。この小さいとことかさ、うん、花びらのつるつるしてる感じも。うん、そうだ、これ」
「だれ?」
「あさみだよ。あさみ。あ、あいつには言わないでね。調子乗るから」
 あの人はわざと残酷に笑う。絶対にわざと。
「……私のは?」
 声はかすれたけど、聞こえたはずだ。だけどあの人は名づけたばかりの〈あさみ〉を触ったまま、ひときわ明るい声で言った。
「あさみさー、もうすぐ帰ってくんだって。あいつすっげー太ったんだって。やっぱ向こうの飯ってめっちゃカロリー高いらしい。お前、ダイエット手伝ってやってくれよ」
 その指が、花びらをなでる。
「いやだよ」
 あさみなんか触らないでよ。
 思わずそのひじを掴むと、あの人は勢いよく振り返って早口に言った。
「なあ、言わないでくれよ、あいつには。俺ら、なんにもなかったよな。俺らは二人であさみを待ってるんだよな?」
 私は? 私のは? 私のばらは? 私の名前は?
「ごめん」
 ほらね。簡単に寝る子は大事にされないんだよ。簡単じゃないよ。ただ触りたかったんだよ。触られるのが嬉しかったんだよ。あの人のからだ。豊田君のからだ。私のからだ。あさみのからだ。私だけ、きれいじゃない。

 そこまでだった。突然連れてきて、突然帰ろうと言ったのに、豊田君は何にも聞き返さずに「そうデスね」と言う。
 そりゃそうだよな、と私は自分に言い聞かせる。この人は象の行進をするだけだ。
 唐突に、ディズニー映画のエンディングテーマが二人を包んだ。ここの閉園の音楽は二年前と変わってない。あの時も、気まずい私たちを助けるように陥れるように、大音量でかかっていた。豊田君の背中はそれでも急ぐことなく、最初とおんなじ速度で肩を揺らす。この人は何を考えているんだろう。前をゆく象に導かれているのか、私が象を追い立てているのか、わかっらない。
 なんか、泣きそう。

 バスが動き出す。二人がけには座らず、一人がけに前後で座る。豊田君はなにも話さない。駅で解散となるだろう。明日からは挨拶もしなくなるかもしれない。
「なんてお名前なの」
 ふいに投げられた言葉にふりむくと、ななめ後ろの席で、おばあさんが赤ん坊を抱いた母親に話しかけていた。
「とめちゃんです」
 と、母親が答える。
「まあ、ずいぶん古風なお名前ね」
「本当は乙女って名前なんですけど、短くして『とめ』」
「なるほど」
 と、おばあさんが笑う。赤ん坊は、母親が編んだのだろう、鉤針編みの派手な縞柄の帽子をかぶって、お地蔵さんのようにちんまりと笑っている。思わず頬がゆるむ。ちらっと後ろを見ると、豊田君もにこにこと赤ちゃんを見ていた。もう一度赤ちゃんに視線を戻す。つややかな黒い目はじっと豊田君を見ている。
 赤ちゃんもこの人のことが好きなんだ。
 そう思ったとき、
「あの子、高橋さんば、ずっと見よるよ」 
 豊田君がささやいた。
 思わずまじまじと豊田君の顔を見る。
「なーん!」
 豊田君は照れたように笑い、
「あ、ボク、なまってしまッテイル」
 と、いるもの片言の標準語で下を向いた。
「だからなまっていいんだってば」
 豊田君は赤くなって、さらにうつむく。
「そこがいいんだってば」
 私は断言する。
「……ほう」
 その「ほう」が、感心の「ほう」なのか、「そう」という意味なのか、わからないまま私は笑う。豊田君もへへっと笑う。
 そうだった。この人を映画に誘ったのは、なまるのを気にして言葉を選ぶ様子が、嬉しかったからだ。なんだか、言葉といっしょに私まで大事にされているみたいで。勘違いでも嬉しかったからだ。
「とめちゃん、おとめちゃん」
 おばあさんが鼻をくすぐると、赤ちゃんは歯のない口をあけて笑う。母親も笑う。豊田君がそれを見ている。
 昨日、この人と寝たんだ。
 そのことが、急にいまさらとてつもなく、恥ずかしくなった。誇らしくて、恥ずかしくなった。



いかがでしたでしょうか(モジモジ……)
井上荒野さんはこの作品にどんな選評をしたのか――、気になった方はぜひ「第六回深大寺恋物語受賞作品集」(税込600円)をお買い求めください。大賞ほか、そのほかの受賞作も載っていて勉強になるかと思います!

転載のご許可をいただきました、深大寺恋物語事務局のみなさま、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?