見出し画像

言葉を封じ込めるもの

先日、ある記事を読んでから、ムカムカがとまらない。

主なテーマは、薬物使用「撲滅」のスローガンが、依存症治療にはむしろ逆効果だということ、何年も前から厚労省とその薬物使用「撲滅」運動の運営にかかわる外郭団体に申し入れているが撤回しようとしないこと、そのために薬物依存から回復しようとしている当事者や家族等が今も不要に傷ついていることだ。ここまでの内容は問題ないと思う。

でも、そのスローガンを作ったのが、オリンピック開会式の企画で渡辺直美をpigに扮装させようと発案したプロデューサーだとして個人の実名を出し、さらに、この記事のタイトルに名を載せ、「やっぱりこの人だからこういうことしたわけよね」と感じさせるようなタイトルで、読者を記事に誘引しようとしていた。

これは……おかしい。

さらに、わたしも著作を数冊読んで対応を注目していた依存症専門の精神科医が、個人攻撃を加速させつつ拡散を求めていたのも、腹立たしく悲しかった。

どっちのコピーも企画も、そりゃあ決してよろしくない。自分の仕事から発生した結果を謙虚に追わず探ろうとしなかったのも、怠惰だ。プロとして、鈍感だなと思う。
でも、過去の状況下でした仕事のツケを、記事タイトルに実名掲載してまで論って責めるのは、やっぱりおかしい。

そもそもこの記事のテーマは、彼の話じゃない。その素地を作った過去の反省、利権に固執する組織の姿勢への抗議、スローガンの言葉で傷ついた人々の一刻も早いリカバリーの必要性。それだけでいいはずなのに、それでは吸引が弱いから、人名を「使った」のだろう。


アイディアは、無意識の土から生まれる芽だ。土の中には、その人の成長の中で得たいろんな偏見や間違いや、時には侮辱も、てんこ盛りに入っている。まるはだかだから、本来、創作物はすべからくおっかないものだ。クリエイターは自分の無意識に鋭敏である必要があると思う。
でも、喜劇や寄席では偏見を飛び越えて笑ったりもする。芸術の中に入ったりもする。その偏りは、表現の果実に不可分に含まれているものなのだ。
制作側の人の目を通して、誰かにとって致命的な違和感となりうる危険な表現なら、それを却下する。世に出ても批判されて、消えていく。広告は利益と意思操作の意図がからむから、評価が厳しくなる。それでいいんだ。
許可された場としてまるはだかで話し合えるブレストの内容まで、しかも数年経ってから個人的に責め立てられたら…作り手は本当に、何も言えなくなる。

スローガンの表現を許してきたのは、そこに関わったすべての「わたし」だ。かつては、それが意味のない、悪いこととは思わなかった、そういう想像力も持たず、事実も知らなかった、過去のたくさんの「わたし」。
「わたし」たちの罪を大元のひとりになすりつけるのは、アンフェアだと思う。よくなかったね、これから未来に向かって、この表現は使わなくしよう、というだけのこと。

もちろん、言葉が人を傷つけて、取り返しの付かない事態に追い込むこともある。でもひとりからの言葉なら、そこまで理不尽に追い込むことは少ない。みんなでひとりを「ダメ」だと言葉で攻撃する、退路を断つその構図が、徹底的に人を追い詰める。薬物使用撲滅のスローガンがよくなかった理由もそこにある。
そしてそれは、20年前の表現が「ダメ」だったと、いままさにひとりの作り手を後出しで個人攻撃している構図そのものだ。これが続けば、自由な表現は萎縮して、自分自身の首も締めることになる。「ダメ?ゼッタイ?」って、人の顔色を窺いながら話す世界に、スパイラルで入ってしまう。

人を傷つけない世界も言葉も、人類と言葉が生まれた時から、ない。人らしく生きるとき、傷つくのは含みおきだ。欲しいのは、傷つかない世界じゃない。傷ついてなお立ち上がれる世界だ。傷ついたと誰かにはっきりと言える世界。どこかに逃げ道がある世界。救われる場所のある世界。どこまでも顔色を窺う世界は、はたしてそういう世界だろうか。

アクセスしてもらわないと、媒体は役に立たない。でも、個人の吊し上げをフックに使うのは、結局は言葉を封じ込めていく最悪のやり方だと思う。中味で勝負してほしい。地味でも本当に必要としている人がいる記事なら、ちゃんと読まれるから。
不特定多数を巻き込んで誰かひとり(たとえ罪人でも、問題意識のない一般人でも)の言葉を攻撃すること。どんな大義名分があろうとも、その状況だけは、わたしはやっぱりどこまでも、嫌いだ。
悪口は、ひとりで、直接、言いなさい。


※頭にくるのでその記事のリンクは載せないっ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?