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ぬけない棘の⽬のやり場 ~Note For My Wellbeing~

私たちは普通の4人家族: 私、夫、そして2人の息子。週末はキャンプや公園へ行く、たまにぶつかりながらくぐり抜け てきた 15 年間、⾃分で⾔うのもおかしいがどこにでもあるごく普通の幸せな家庭だ。そんな私がずっと持っている棘がある。ずっと目をそらしている棘。どうしても抜けない棘。

安心との出会い

夫との出会いは大学3年生の時。彼は1年下だったが、私が休学し海外に行っていたため、帰国後は同じクラスに。私たちの専攻は⽔、廃棄物など社会インフラのエンジニアリングと地球環境保全。私は友達の少ないアウトローな⼈間で、環境コンサルタントを目指してまっしぐらに突き進んでいていたので大好きな教授に会いにいって議論するか、バイトするかで同じ大学の友人はほとんどいなかった。彼は成績優秀で、彼は教室の後ろを陣取りワイワイしているクラスの中心的存在だった。

当時、私は夜も眠れないことが多かった。寝られなくて次の⽇起きられず学校にいけないこともよくあった。何が心配だったのかはあまり思い出せないけれど先の⾒えない⼈⽣と⼀⽣懸命対峙してたんだと思う。 当時は五木寛之の「人生の目的」などを読んで夜を過ごしていた。安いボロアパートの1階に住んでたので、北海道の冬は本当に寒くて。でも、暖房を使うのももった いなくて窓に段ボールをはって寒さを凌いでいた。お金がなかったので、ご飯を食べるかわりにワンカップ大関を熱燗にして飲んで夜眠ることが多かった。今考えると、生活の安全が全くない生活だった。

彼との交際を始めてから、彼の隣でよく眠れるようになった。寒いアパートの狭いシングルベッドに⼆⼈で寝るだけで⼈⽣に安堵した。

彼は常に私を支えてくれた。よく私は北24条東3丁目あたりのミスドでひたすらコーヒーを飲みながら勉強していた。午前0時閉店近くになると、決まって自転車で迎えに来てくれて、しんしんと雪降る夜に⼆⼈で歩いて帰った。
息を吐くと私たちの間に白い冷え切った空気が舞った。コンビニで買った温かい⾁まんの湯気と自分たちの息が、静かに地面を覆う雪たちと相まって、白い美しい世界が本当に愛おしかった。その中で二人だけの純粋で温かい時間が流れていた。こんな寂しく苦しい世界に温かくサポーティブな⼈がこの世にいるのかと感激した。

その後付き合って2ヶ月ほどで、私が再び海外へ行き、彼は地元の大阪へ大学院を決め、私たちは近くで時間を過ごすことはなかった。それでも5年の間、途絶えることなく愛を伝え合い、やがて結婚した。子供が生まれても愛しさは途切れることがなかった。

なんとなく潮⽬が変わった感じがあるのが⼆⼈⽬の妊娠だった。6年ぶりの妊婦生活は20代の頃と違ってすこぶる辛かった。常に体調が悪く、感情が不安定になる日々。本当につらくて起き上がれないし、それまで⼤事に育ててきた息⼦の動きがイラつく、泣ける、⽌められない怒り。そして、ちょうど彼が茨城に単身赴任してしまったので、私が東京で仕事をしながら長男を育て妊婦として生活の中での、溢れる役割だった。
畳の上で産みたいと選んだ広尾の⽇本⾚⼗字病院は、東京の⻄側だった。待たされるし、遠いし、人も冷たい。ただの偏見だが、当時住んでた東側からみると西側の人たちはなんて冷たいんだと思っていた。そして、上⼿く⾏かない時は何もかもが上⼿く⾏かないんだよと神様が教え てくれてるようだった。

出産のいまでも残る痛み


出産に対しては強い強い願いがあった。どうしても家族4人で一緒に産む体験をしたかった。 それは初産の時の経験からきていた。箱は私のお腹で、出口は私の子宮だけれども、そんなのは外側の話で、未知なる生命が誕生し、自分と遭遇し繋がり、それが地上に初めて誕生することへの高揚と神秘、そんな史上最高の感動体験を立ち会ってくれた彼とお腹の子供ともに味わった。もう一度それができるのかと心待ちにしていた。

陣痛が来たのは朝5時ごろだった。体験したことのある痛みだったし、⽐較的⼼は落ち着いていた。私は幼い⻑男を起こし、タクシーを呼んだ。
「いまから来てくれれば彼は出産には間に合う。」と思い、朝に陣痛が来たことにお腹の赤ちゃんに感謝の気持ちで彼に連絡をした。タクシーに乗り込み、朝の霧がかった皇居の中を走り抜けた。陣痛専用の運転手さんは女性だった。温かい雰囲気で私に頑張ってねと応援してくれた。皇居の新緑に朝の光が差し込んで美しくて、新しい誕⽣をお祝いしてくれているよう だった。

病院に到着してすぐ助産師さんに⾔われた。
「もう 2,3 時間で産まれますよ。ご家族の⽅を呼んでくださいね。⼆⼈⽬だから早いよ。」
実家の⽗は鎌倉から1時間できてくれた、朝7時。程なくして陣痛の感覚が短くなり助産師さんの⾔う通り すぐに⽣まれた。本当にすぐだった。朝9時。 彼は到着しなかった。産まれる直前に⽗が気を遣ったのか、私の横でゴロゴロしてた⻑男を連れて部屋の外に出てしまった。私はカーテンで囲まれた場所で一人で産んだ。

そこからの記憶はあまりない。周りの景⾊や息⼦を取り上げてくれた瞬間も覚えてない。生まれたばかりの子供の顔は可愛くて仕⽅がないはずなの にすべてがグレーだった。⼀⼈で産んだという事実を受け⼊れられなかった。

彼が到着したのはお昼 12 時を過ぎた頃だった。朝5時から12時まで7時間。半日かけて何をしていたのか説明をして、謝罪をしていたけれど何も⽿に⼊らなかった。怒りを通り越して、残念と悔しさが込み上げた。 その時から、彼の顔がのっぺらぼうになった。6年たっていま、次男の愛しさがやっと戻ってきているけれど、あの時のことを思い出すと⾃分の⼼がグレーがかる のが明らかに⾒える。 彼は変わらず私をあるがまま受けて⽌めてくれるし、私のやること全てを肯定し、私を⾃由にしてくれるサポーテ ィブな⼈である。⽇々幸せそのものに⾒える家庭は幸せなのかもしれない。もしかしたらこれから何年か経つと、 時が解決してくれるのかもしれない。わからない。でも、あの日のことは私の中に今も深く残っている。

先⽇、彼に率直にその気持ちを伝えてみた。
「私は、未だにあの時の悔しさ、残念さ、悲しみ、裏切られた気持ちが忘れられない んだよ。」
それを聞いて、彼は疲れた顔で笑っていた。


よく生きるとは保留すること

よく生きるってなんだろう?って最近考える。
最近流行りのウェルビーイングという言葉は一部で”幸福”と訳されるから、ハッピー!嬉しい、楽しい、幸せ、そんなポジティブな人たちが前に出てくることが多いように思う。
でも、そんなにハッピーな人なんて本当にいるんだろうか?
これは嫌い、これは好きと言ったようにはっきりと真っ二つに人生パキッとわけることができるんだろうか?
好きだけど嫌い、幸せだけど幸せじゃない、そんな間を行き来し漂うことが生きてることだと私は思う。そして、その間にいる私のなかのいろんな私を保留し続ける、受け入れる、横に置いておく、それがよく生きるということなんだろうなと思う。
早く答えを出したくなってしまうし、誰かが答えらしきものを大声で叫んでいたら、そうかも?と追随したくなってしまう。これほど情報が溢れて、正解のようなものが蔓延る世の中に、”あいだ”にい続けるという選択をすることは案外力が要るものだ。でも、私のウェルビーイングのために、そうする。

答えなんてないこの世界に、答えがでないことに恐れることなく、私は漂い続ける。

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