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エジソンの母になりたかったんです

以下は三年前の当時、不登校だった息子について綴った言葉たちです。いま現在不登校に思い悩んでいるお父さんお母さんに何かしらの助けになることを願って。

溺愛息子はエジソンになりたい


息子がね12月18日で10歳になりました。ハーフ成人というらしい。

子供って可愛いのは3,4歳までで、途中で反抗期が来て話もしなくなるのかなぁなんて思ってたけど、10歳の今でも本当に可愛い。たぶん15歳になっても、20歳になっても、40のおっさんになっても可愛いのだろうなと思う。

3歳次男は、産まれたときから反抗期だし、適当に育ててるから大きな怪我なく元気であればまるもうけと思ってるけど、

長男はとりわけ特別で。

彼が初めて「ままきらい」って言った日はめちゃくちゃ落ち込んだし、保育園の先生に「〇〇ちゃんと好き同士なんですよ」って伝えられた瞬間は、呆然として、なんなら涙出たかも、っていうくらいのそんな溺愛っぷりだった。

でもその裏には、私が仕事で願いを持つごとに保育園を変えていたので、彼は保育園を5つも経験してるし、夜遅くまであずけてた、そんなことへの懺悔の気持ちもあるのかも。

ある日、4歳くらいの七夕にね、彼が短冊に「発明王エジソンになりたい」って書いていた。その前の年は、たしか「仮面ライダーチェイサーになりたい」だったからえらい成長だなぁと思ったのを覚えてる。

しってる?エジソンってざっくりいうと、

先生に「なぜ?」って質問しすぎて小学校を退学させられて、独学で勉強し、働きながら色々発明した人、なんだけどね。
小学校教育を独学で学ぶ裏にはエジソンの母の存在は大きい。
彼に小中高の基礎学力をつけ、実験場所を提供し、ワクワクを伸ばし続けた母、何者やと、私が尊敬の念を持ってる母の一人。

彼がエジソンになりたいと言った日から、私は、エジソンの母になりたかったのかもしれない。


不登校の兆しと母の狼狽

もともと学校につまらなそうに行ってた彼が、コロナ休校を経て、いよいよ「行きたくない」と言い出してね。

来たかエジソンよ

と私は思うわけだ。

毎日楽しそうに友達の話をするから、よく分からなくて、「どうしていきたくないん?」と理由をそれとなくきくけれど、「疲れた」の一点張り。

彼なりの理由は確かにあるんだろうけど、私や大人には説明が難しいんだろうなと理解しようとしてみる。

うーん。でも、いまいちうまくいかず、頭の中ははてなと焦り。

年末に学校面談で先生と話すと「彼は、学校の毎月のアンケートでも楽しいに自分で”超”をつけちゃうくらいですよ。楽しんでるんだと思っていました」と。

うーん。愛情不足か。

もともと在宅勤務だしコロナの休校期間もあって、なんとなく私が仕事しながらホームスクーリングいけるかもと思っていたので、たまに休ませたりしていたのだが、それはそれで私のストレスがたまり…イライラがむくむく。

ジギルとハイドの様に、はたまた天使と悪魔の様に、私の頭の中では二人の人格が行き交う。いや、頭の中だけではない、声やエネルギーなど外に漏れ出ていた。お家でもいいんじゃない?って伝える優しい母と、なんでいかへんねーん、仕事できんやないかーい!という怒りで余裕のないパンパンの母が数時間おきに交互に現れる日々だった。

そうこうして、いい塩梅を探してるうちに、彼のストレスピークに達してたみたいで、年末あたりは色々あった。夢遊病みたいになってね。夜暴れて走り出す、怯えて泣き出す、やっと宥める、そして彼にはその記憶が全くないという状況が何度も続いた。

病院に連れて行くと、彼への薬よりも母の私への薬が渡された。ショックだった。

私が仕事で夜や週末に十分に構ってあげられないことが不安なのか、はたまた”くもん”が嫌いすぎるのか、フォートナイトのやりすぎなのか、わたし的には結構なショックだった。

ショックだったし、どうしたら良いのか本当に困っていた。

私のなにかが悪いのか?

信じるということはコントロールしないこと

そんな時に心に刺さった言葉があった、年末の対話会。

対話の仲間のかずが出してくれたことばの焚き火。かずがホールドするあるセッションで、色んな人の声が出たし、自分の思い通りにいったなと、ある意味満足感いっぱいで終了したとき、それを見ていた彼の仲間が彼にいった一言があった。
「人の可能性を信じてないんだね」

自分の想定内で対話を思い通りいかせたということは、彼がコントロールしていること。自分が想定しないところに、行ってしまうことを恐れ、不安になっていることはよくあるけれど、それも含めて「コントロールしないということ」こそが、「人の可能性を信じること」であり、「その人がそのままでいい」よという意思表示なんだなぁと気づいた。

逆に言うと、自分の思ったとおりにいってほしいとコントロールするってことは相手の可能性を信じれない結局は自分の弱さや自分自身が自分を信じることができていないのが問題なのだよね。

私は、これまでの仕事で、時間内に効率的に結果を出すために、目的とゴールをセットし事前にステークホルダーと調整して落とし所をきめて望むことが”正しい”ことだと思ってきたし、何の準備もせず、ぐだぐだになり多くの人の時間を無駄にすることはありえないと思ってきた。そんな私が、目から鱗がおちた言葉だった。

そう、まさに丁寧と効率のバランス

そして、全く違う文脈だけど息子のことが思い出された。

確かに、産まれた時から2,3歳は目の届く範囲でしか自由にさせてないし、安全を確保する上では視界にいさせる、そこから逸脱したら連れ戻すことは必要な行為だったけれど、

それを10歳の子にやってしまっていないか?と。

自分の生きてきた世界しか見ていない自分が彼を自分の視界の外に置くことを恐れていないか?と。


愛さえあれば

その握ってしまっている私自身の彼への執着を、どうやって手放したらいいのかは今も模索中なんだけど、新年になって決めたことが2つある。

・一つは彼の話を丁寧に聞く事

・もう一つは彼の可能性を信じる事

年始から、彼と一緒に週2,3回の朝の登校に付き合っていて、ゆっくり歩いて15分の道のりを彼の話を真剣に聞くようにしてる。
たった15分だけど二人の距離をいい感じにとれてる15分。
すごく大切にしてる15分。

子育てって本当に正解がない。

毎日反省、毎日後悔、毎日ごめんね、毎日大好き、毎日ありがとう、毎日ハグ、毎日試行錯誤。

結果がみえるのは彼が死ぬときに、「あぁ、いい人生だった」って言って天国に行く時よ。

でも、ある方が教えてくれた。だからこそ、子育ては最高のチャレンジ、日々予定調和を乱してくれるゆらぎであり癒やしでもある。

私はエジソンの母にはなれないけれど、彼の可能性を信じて手を離し、私の視界の外に行っても、彼なら大丈夫、そう言ってあげられるような母親がいいなぁとおもう。

お誕生日おめでとう。これからもよろしくね。

そして私も母親10歳おめでとうだ!

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