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小説『贈り物』

おいしいものから生まれる小さなストーリー」は、自分の好きなおいしいものから想像したストーリーを綴っていく掌編小説集です。今回のストーリーの種となるおいしいものは、巴裡 小川軒の「レイズン・ウィッチ」です。

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カシくんの漢字は「樫」くんだけれど、私のなかでカシくんの漢字は「菓子」くんに変換される。カシくんはだって、甘くて、優しくて、私を夢中にさせるものだから。私はいま、カシくんに恋をしている。

知り合ったのは、去年の秋頃だった。
私が所属するおやつ研究部というサークルに、途中入部してきたのがカシくんだった。

背が高くて、色白で、ほんわかしていて、いかにも人の良さそうなカシくんは、実際に話してみると本当に良い人で、なんだか一緒にいると心地が良くて、一目惚れではないけど、三目惚れくらいの速さで私はカシくんを好きになった。

同じ大学の同じ学部の同級生だったから、カシくんとは授業で顔を合わすこともたびたびあった。今日も天気いいね、とか、駅前に新しいパン屋ができたよね、とか、そんな他愛のない会話をたまにして、授業が終われば、じゃあまたね、と手を振りあう。たったそれくらいの関係で、でもときどき、授業のあとに一緒に部室に行くこともあって、そんなとき背の高いカシくんはいつも背の低い私の歩く速度に合わせてくれて、そういうところがすごくいいな、と私は思った。単純だけれど、そういう気配りこそが重要なのだ。

となりで並んで歩いていると、カシくんからはいつも不思議といい匂いがした。香水とか、整髪料とか、そういう匂いではなくて、もっと優しい甘さの、それこそ焼菓子のようなほっこりする匂いがする気がした。

友達の朱美ちゃんにそのことを話したら、それは優ちゃんがカシくんに恋しているからだよ、と笑われたけれど、恋すると嗅覚って、ちょっとおかしくなるのだろうか。うん、ひょっとすると、そうなのかもしれない。

カシくんは、とある洋菓子店のレイズン・ウィッチが一番好きなお菓子だと言っていた。それは私の一番好きなお菓子でもあった。カシくんが入部した日、他の部員に尋ねられたカシくんがそう答えたとき、私も一緒だ、と言えなかったのは、そのときにすでに私はカシくんのことを気になっていたからだった。せっかく見つけた会話の糸口をみすみす放棄してしまうなんて、自分のなかの「好き」に気がついたとたん、どうしてこうも怯んでしまうのだろう。

私はでも、ずっとカシくんに片思いのままでいた。カシくんにはだって、他に好きな人がいたからだ。親切にも、いや、お節介にもというべきか、朱美ちゃんがわざわざカシくんの友人から聞きだしてくれちゃったのだ。カシくんって彼女いるの?と。そこで得られた情報は朗報および悲報で、一つはカシくんには今彼女がいないということで(これは朗報)、もう一つは、カシくんは現在片想い中で、相手はバイト先の他大の女子だということだった(これはもちろん悲報だ。一瞬はしゃいだあとに告げられたのだから、なおさらの悲報)。

でもいいじゃん、あっちも片想い中なんだから告白したって、と朱美ちゃんは背中を押してくれたけれど、同じく片想い中の身としてはカシくんの恋路の邪魔をするのは本意ではなかったし、正直、振られる自信の方があったから、怖じ気ついた私は結局動けずじまいになってしまった。

それからはおやつ研究部ならぬ、カシ研究部となり、カシくんの動向をこっそり窺っていたけれど、カシくんに特に変化は見られず、会えばいつものように平和な会話をし、平和な時間を過ごし、私はカシくんの甘い匂いにただただ酔いしれていた。

けれど、年が明けてバレンタインデー間近になったとき、またしてもお節介にも、いや、これは親切にというべきか。朱美ちゃんがカシくんの友人から入手してくれた最新情報を知った私は慌てて意を決した。聞けばカシくんは、そろそろ片想い中の彼女に告白しようと考えているという。これは一大事だ!と、今頃気がついた私は、だめでも何でも告白しようと心に決めた。そうしないとたぶん、後悔するのが目に見えたから。

まわりの女子たちがチョコレート探しに夢中になっているなか、私は迷いなくあの洋菓子店に行って、レイズン・ウィッチを一箱買った。十個入りと五個入りとあるから迷ったけれど、五個入りくらいがちょうどいいかな、と思ってそれを選んだ。

翌日、カシくんに連絡をした。連絡先は同じサークルだからずっと知ってはいたけれど、直接連絡するのはこれがはじめてだった。今日か明日か明後日あたりで会えるときってあるかな、と。あえてバレンタインデーを避けて予定を聞いたのは、その日はひょっとすると、カシくんが意中の人からチョコレートをもらう日かもしれない、と思ったからだ。先駆けしようとしたわけではない。遠慮したのだ。カシくんの大事な日をいただこうとするのは、どうしても気がひけたのだ。この期に及んで優ちゃんはお人好しだねえ、と朱美ちゃんには言われたけれど、でも、その方が自分としては満足なのだから仕方がない。

送信後、しばらくしてから届いたカシくんからの返事には、びっくりした、と書いてあって(何にびっくりしたのだろう)、そのあと、いいよ、でも今日の夕方あたりでもいいかな、とあったから、もちろんいいよ、何時でも。そう返信すると、今度はすぐに返事があって、その日の夕方過ぎに私たちはいつも会う大学の七号館の大教室で待ち合わせをすることになった。 

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家でお化粧直しをして、人もまばらなキャンパスに戻り、緊張しながら七号館の重たい扉を開けると、誰もいない階段教室の一番うしろの席にコートを着たままのカシくんが一人座っていた。こちらから呼び出したのにごめんね、待った?と急いで階段をのぼってカシくんのとなりに座ると、自分もさっき来たところだから、とカシくんは言ったけれど、この状況を察しているのか、カシくんの表情はいつもより強張ってみえた。

いつもは大勢の生徒たちで賑わっている教室に、私とカシくんの二人きり。大きな黒板には前の授業の書き残しなのか、よく分からない記号が子供の落書きみたいに書かれてあった。

互いの緊張のせいですこしだけ気まずい空気が流れたけれど、最初に口を開いたのはカシくんだった。

じつはあの…と、カシくんは言うと、背後からそっと見覚えのある紙袋を取りだして、これ羽田野さんに、と言って、おずおず私にその紙袋を差し出した。あ!と思ったのは、それはまさに今、私のトートバッグのなかに隠し入れている紙袋と同じものだったからだ。

なんで?と思わず言ったら、カシくんは顔を真っ赤に染めて、色白だから首筋のあたりも桃色に染めあげて、羽田野さんもこれが一番好きなお菓子だと聞いて…、と言ったあと体ごとこちらに向き直り、カシくんはいきなり私に告白をした。私のことが好きなのだとカシくんは言ったのだ。

まさかの展開に私の頭は一瞬真っ白になって、事態を理解するのに数秒かかった。いや、本当はもっとかかっていたかもしれない。カシくんが思いを寄せている相手は他大の女子ではなくて、なんとこの私だったなんて!

聞けばカシくんは、おやつ研究部の仲間から私の好物を聞き出して、そして今日、私が訪れたばかりの洋菓子店に赴いて、レイズン・ウィッチを買ってきたのだという。でも、カシくんも私と同じ気遣いのもと、バレンタイン当日に告白するつもりはなくて、いつ会えるかどうか聞いてみようかな、と思っていた矢先に、私本人から連絡を受けたのだという。

だからすごいびっくりしたんだけど、これも何かのタイミングなのかなと思って…。カシくんは照れたように言って、そして固唾をのんで、私の返事を祈るように待っている。そんなに祈らなくても分かっているくせに、と思ったけれども、でも違う。カシくんはカシくんで、私がべつの誰かに片思い中だと勝手に勘違いをしているようなのだ。私の呼び出しにもだから、どこか懐疑的なものがあるのかもしれない。

どこでどう、情報が錯綜したのか分からないけれど(一瞬、心のなかで朱美ちゃん!と私は叫んだけれど)、こうして互いの勘違いのもと、私たちはバレンタインデーの数日前に、ここでこうして向き合うことになってしまった。神様って、ちょっといじわるではないだろうか。いたずらがすぎるよ、と思った私は可笑さを隠しきれずにくすくす笑いながら、自分のトートバッグのなかからお揃いの紙袋を取りだすとカシくんに差し出した。

それを見たカシくんは驚いた顔をした。それからほどけるように笑顔になった。こちらこそよろしくお願いします、と私も丁寧に返事をして、改めて自分の気持ちもちゃんと伝えて、よく分からない流れのなかで私たちの想いは実ったようだ。

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互いの緊張も緩んだところで、せっかくだからここでおやつしようか、と言うと、カシくんもそうだね、と同意して、それぞれ袋のなかから箱を取りだし包みを開けて、二人同時にサクッとレイズン・ウィッチにかじりついた。

厚みあるクッキー生地にはバタークリームのような、生クリームのような、店特製のクリームとラムレーズンがたっぷりサンドされてあってとてもおいしい。洋酒の香りが口のなかにふわっと優しく広がっていく。

「家にいるときはこのクッキー、剥がして食べちゃうときもあるけどね」
と私が言うと、分かる分かる、とカシくんは言って、
「これ、すこし日にち置いて、しっとりさせてから食べてもおいしいよね」
とカシくんが言うと、分かる分かる、と私も言った。

となりで私はカシくんの横顔をこっそり盗み見る。短い睫毛。つぶらな瞳。でも鼻筋はすっと通っていて、なだらかな稜線をその輪郭に描いている。それなのになんだか全体的にぼんやりした印象で、やっぱりカシくんはほんわかしているというのがしっくりくる。

ねえ、これってあれみたいじゃない?と私はふいに思ったことを口にだす。ほら、あれ、賢者の贈り物っていう物語。オー・ヘンリーの有名な物語。妻は夫のために大切な自分の髪の毛を売って、夫は妻のために自分の大切な時計を売って、貧しさのなか、それぞれが相手のことを思いやってクリスマスプレゼントを買うのだけれど、でも結局、それは形のうえでは無駄になってしまう。そこに描かれていたのは自己犠牲と思いやり。私はこの物語を読んだとき、ひどくやるせない気分になった。けれども同時に彼らはなんて美しいのだろうとも思った。そしてその美しさは、古典美術をみたときに感じる美しさにもちょっと似ていると思った。

カシくんは首をかしげた。ちょっと違くないかなあ?と言ったあと、あ、でも、互いのことを思いやって行動したのは自分たちと同じだね、と言って照れたように笑った。私たちが贈り合ったのは同じレイズン・ウィッチというお菓子だけれど、受け取ったそれは、それぞれの思いやりを込めた唯一無二のレイズン・ウィッチなのだ。

誰もいない教室で大好きなレイズン・ウィッチを二人で食べるこの時間、私たちはきっと、誰にも邪魔できない優しい空気を含んだ繭に包まれている。

そしてとなりにいるカシくんからは今日もやっぱりいい匂いがする。ほっこりとした、焼菓子のような甘い匂い。カシくんは私にとっては菓子くんで、これからもきっと、私を夢中にさせる。甘くて、優しくて、私はカシくんのことが好きで好きでたまらない。

幸福感が蒸しあがっていきそうな勢いのなか、でも、頭の片隅で私はちゃんと知っている。「好き」が成就したあと、これから続く道のりは決して甘いだけではないことも。酸っぱさや、苦さや、辛さや、ときには顔をしかめるような色んな味わいがあるのだろう。

でもだからこそ、今しか味わえない、この特別に甘い時間を存分に味わいつくしたい。この瞬間、私は心のなかで溢れる思いを叫ぶのだ。
カシくん!カシくん!カシくん!と。

(了)
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