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恋は、宿痾であるという話。

先日、宮野真生子氏の「言葉に出会う現在」を読む機会があった。

その中に恋とは何かという話があって、簡潔にまとめてしまえば恋とは、いくらでも自分の替えが効く現代社会において、恋の持つ自分でなければならないというその代替不可能性により真の自分を手に入れるための手段であり、近代人の宿痾、つまり長い間治らない病であるというものである。

ほう。なるほど、一理あるかもしれない。

恋が宿痾であるとするならばその重篤患者の中には間違いなく私も入ることであろう。
自分で言うのもなんだが、恋に生き、恋に救われ、恋に涙した女である。今まで好きになった男の数は数知れず。15年しか生きてないけどな。好きになられた回数ですか。聞かないでいただけますか。

"恋の持つ自分でなければならないというその代替不可能性により真の自分を手に入れるための手段"としているものの代表例がこれである。
なんか宣伝くさいな。違いますよ。決して。

だからと言って好きになられれば全員好きになると言うわけでもないのだが。
ある程度仲が良くて、話したことが一定数ある相手が私のことを好きだというのならどんどんその人のことを気にしてみてしまう、挙げ句の果てに好きになるというものである。

人は、「自分じゃなくても良い」ものに対して投げやりになったり消極的になったり、面倒くさくなるものだと思う。
なぜなら、自分がそこにいる意味がなくなるからだ。
しかしながら輝かしい発展を遂げた現代社会では、「誰でもできる」仕事、「誰がやっても同じ」仕事が多い。
すなわち、現代人は代替可能な社会に、精神をすり減らしながら生きているのだ。

そこに現れたのが「恋」である。

この人でなければならない。もしくは、自分でなければならない。
その代替不可能性に人々は酔いしれ、真の自分を手に入れる。
時に、その恋の相手を真の自分を手に入れるためのアイテムとすることさえも厭わないほど。
そう聞くと、確かに恋は病だと思う。

長年続く片想いも同様であると思う。
この人でなければならない。そう思えた人に、自分でなければならないと思ってもらえたならば、どんなに幸せだろうか。
お互いにお互いの存在価値を認め合えたなら、そんな幸せなことはないだろう。
それを叶えるために人は片想いをするのではないかと思う。

あなたが恋をする理由はなんだと思いますか。
代替不可能性によるものか、はたまた恋は理屈ではないと考えるのか、もしくは他の理由か。
考えると面白いかもしれませんね。

余談ですが、実はこれは7月に書いたものです。
学校で受けた模試にこの文章が出てきて思わず書いてしまいました。


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