私のものでなくなる誕生日
誕生日が近づいてきた。
子どもを産んではじめてむかえる自分の誕生日だ。
いつも、ゆびおり数えて、待ちわびていた日。
どんな風に祝ってもらえるだろう。
どんな言葉をかけてもらえるだろう。
どんな特別なことをしよう。
自分だけの特別な日にしよう。
10月にはいると、その準備にそわそわ、わくわくしていた。
今年はどうだろう。
日々の育児に追われ、特別感や、その日をむかえるうれしさは、半減している。自分よりも、息子の月誕生日の方が祝うのに忙しいし、特別だ。
祝われる立場から、祝う側にかわったのだ。
産まれる、ということの意味や、それがどれほどの事件だったのかということが、自分ごととして、具体的に、そしてリアルになった。
自分が産まれたということが、両親にとって、祖父母にとって、どれほどの重みをもっていたのか、少し想像できるようになった。
そちら側の気持ちに寄せて、自分の誕生日を見つめている私がいる。
不思議な気持ちだ。
私が産まれた日、母が味わった痛みと不安と安堵がわかる。
父が感じた、まだぼんやりと薄かったであろう実感、喜び。
母を労わり、どれほど心配したであろうか、祖母の心中。
腰をさすり続けてくれたという祖母に対する、母の感謝の気持ちも。
私が産まれたから、息子に会えたことに感謝したい。
人が育つまでには、どれほど多くの人の手にかかってきたのかも、なんとなくわかってきた。
今の自分と、歩んできたこれまでの自分を肯定する。
消し去りたくなるような過去の出来事も全て受け入れなければ、今ここにいる、息子の存在を否定することになる。
私のものでなくなった、私の誕生日。
それなのに、今まで以上に、愛おしく、特別な日になり、自分がいかに大切な存在であるかを知る。
もう一度、生まれ直したようだ。
麻佑子
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?