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(小さな声で)生まれてきたわけ。

本当は少し前に、あっ!と気がついていたのだけれど、言葉にするのは良くない気がして、黙っていた。

いつものように、ギターで息子をあやす夫と、夫のつま弾く弦に、果敢につかみかかる息子を、オレンジ色の光のなかでぼんやりまどろみながら眺めていた時のこと。
不意に涙がぽたぽた落ちて、止まらなくなり、そっぽを向いて布団に顔をうずめた。

“この子を産むために、わたしは生まれてきた。”

自然と口をついて出た、自分の声で聴くその言葉は、じんわりと私のなかに広がって、いろんなものを溶かして涙にかえた。

自分の人生について、誰かを交えて語ることは、これまでのことを正当化し、責任転嫁になるような気がする。
誰かのために、という理由は、美しいようでいて、自己犠牲の陶酔や、依存の危険性をはらんでいる。
そんな考えが理性に働きかけ、語ることに躊躇したが、今朝、朝ドラの中で、「俺は鈴愛を守るために生まれてきたんだ。」と律が何度も言っていたので、ああそうか、言葉にしてもいいのだと、金曜日の夜に乗じて書いてみる。

抱っこしてくれと泣き叫び、紙のようによく切れる薄い爪でひっかかれた、傷だらけで汚い私の首筋。
今日も接骨院で腰と膝の治療。
久しぶりに会った友人と、束の間の息抜きに注文したケーキは、虫の居所が悪いタイミングにサーブされ、抱っこして立ち食いでかき込んだ。

そんな日常の、ふとした瞬間。
私は、不意に生まれてきたわけを知らされ、小さなことなど、もうどうでもよくなり、強くなったような気がして、私は泣いた。手放しに自分の全てを肯定し、救われたような気持ちになった。そして、親に感謝した。

以前、同僚の先生が話していた、生きる意味や使命の話を思い出した。
自分にも使命があったのだろうか。たしかに、驚くほどさりげなく、そして静かに、ものすごく大きな、あたたかいもので包まれたような不思議な感覚で、それは知らされる。

まだ、うまく言葉にできない。
かわりに、イタリアの友人が、繰り返し話す声が、頭のなかでこだまする。

「子どもが生まれた途端、人生が変わるんだ。
生きる理由、生きる意味になるんだ。」

その言葉が、ようやく私のなかで咀嚼されはじめた、夜の出来事。
私は、決して忘れないだろう。
だから、小さな声で打ち明ける。

麻佑子

#日記 #エッセイ #育児 #子育て

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