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「美しい」とは

「美しい」というのは、絵画などの芸術作品だけではなく、所作やビジネスにも形容される。

いわゆる「美意識」というものがビジネス界隈で取り沙汰されて記憶に新しい。美意識って、この文章を読んでくれているあなたも持っているだろうか?

この美意識。教育にも大切なものだと考えて、この文章を書くことにした。

直接的に「美に対する意識」だけでなく、仕事するにおいて、ここだけは気をつけている…とか、片付けはこうでないと…とか、そういったちょっとしたこだわりのようなものも、私は美意識だと思っている。

自分のこだわりというより、誰かに向けた思いやりのようなものだと、より一層「美意識」感が強まるかもしれない。

例えば私は、関わる子の保護者と接する時、なるべく相手が虚勢を張る必要のないポジションに自分を置くべきと考えている。というのも、私が子どもと関わる仕事上、保護者から必要としている情報は、子どもの日常のありのままの姿についてや、良い事も悪い事も変な事も全部だからだ。子どもなんて、成長過程真っ只中なんだから、良いも悪いもない。親の善し悪しの概念もとっぱらって話をしたい。それだけなのだ。

そこから、彼ら(子どもとその親)のテーマを探っていく。

親御さんとの関係を虚勢を張らなくてもいいものにするべく、私はとにかく近所のおばちゃんと化す。

具体的にどうするかというと、子どもの問題行動について、「もう、あの子ったら〇〇なのよー!そう思わない!?」って感じで、遠慮なくあっけらかんと事実を伝える。人間心理として、あっけらかんと話す人には、なぜだかあっけらかんと話しちゃうから。

美意識というのは、自分はこういうことかなと理解している。自分の(客観的な)イメージよりも誰かのために優先すべき(主観的な)意識…という感じだろうか。

日本人は人に合わせるし場に合わせる…等、最近では空気を読むことをあまり良く言われなくなってきている。逆に空気を読まず、自分のやりたいことを通す個人主義な風潮の方を良しとされる論調も多くみられるようになってきた。

私は、言われなくとも察する、思いやりの深い日本人的な感覚をとても素晴らしいものだと思う。

だけども、変化を続ける社会に出ていく子ども達に関わる大人に必要とされるスキルは、「察して、相手の能力を引き出す」だと考えていて。例えば、「この子は友達に思っていることを伝えるのが苦手だわ…」と察したなら、それを親や周囲の援助で埋めるのでは無く、そこを引き出し伸ばしていく。「こう伝えてみたら?」とアドバイスする。

要するに、「察する」という得意とする能力を、さらに次の目的である、相手の能力を引き出すということに繋げるべく使うということ。

私にとっての「美意識」の一例はこういうことだ。

「美しい」って自分の中での評価だけを大切にしていたら、最終は単なるこだわりの頑固オヤジのようになってしまって、レアキャラとしての有難みを除けば、かなり少数に限られた需要しかなくなる。

それを悪いとは言わないけれど、自分の持てる能力を多くの人に活かすことを考えると、「誰かに対する美しさ」をより大切にしていった方がいい。

今回このnoteを書くにあたって、大学の時所属していた研究室の先生の言葉で、「優れた職人は服も手も汚さない」という美意識に通じるものを思い出した。

「服も手も汚さない」というのは自分だけのこだわりの美意識のようでいて、「服も手も汚さないくらい余裕のある仕事が出来る職人の仕事は安心出来る」という客観的な評価に繋がる、使う相手への思いやりに基づいた美意識なのだと、子どもに係わり、その親に関わる今になってやっと気づいた私であった。


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