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ヨガと英語と人生と。

たった10年くらい前までは怖いもの知らずで次から次へと外国人の友達がいました。「私は何語で話してた?」と周りで聞くと「英語だと思う」とのこと。

そうなんだね?ということは今よりもっと話せてたんだと思う。それともマインドの問題?!久しぶりにキャメロンがニュージーランドから来ているというので顔を見たいし、アシュタンガはもうすっかり練習していないけどプラーナヤーマだったら大丈夫かなということと、住んでいた鎌倉でのWSは都合がつかなかったので東京のワークショップに顔を出すことにしました。

六本木。ギロッポン。
わたしは都会大好きガールですが、身内や知り合い、友達の手伝いなどでクラブに行っていた頃(yellowとか)は六本木、西麻布、行きましたし、かつての演劇のお手伝いの司会などでも六本木でした。とはいえ、カオスティックな感じがするのと、鎌倉に住んだことが1番の転機だと思うのですが、少しずつ緩やかにあまりごみごみしていない場所に居たいという気持ちが高まっていて、なかなか用事がないと行かない場所になっていました。やっぱり六本木は物質的な頂点?に近い感じがしますよね。3次元の頂点に近いというか(表参道の交差点の地価が一番高いと聞いたことがあるけど、今はどうでしょう?)港区も色々なんですけど、赤坂はまだ大丈夫、中央区は大丈夫(銀座。教えていたから)渋谷区も恵比寿も大好きで快適で大丈夫(元々の職場があったから)、港区と言っても広尾は友達が住んでいてよく泊まっていたから大丈夫、意外と下町。杉並区でも教えていたから大丈夫(どちらかというと住宅街、庶民的)練馬区板橋区ももちろん庶民的だから大丈夫。だけど六本木にはなかなか行くことがなくなったかもーという感じでした。
ヨガをすると物質が全てという感じではなくなるので、人によってはスローライフにスイッチされる人もいると思うし、どうなんでしょう?人によるんでしょうか?キャメロンはニュージーランドの人なのできっと自然がいっぱいの場所に住んでいるじゃないかな、きっとだから鎌倉にも住んだんじゃないかな?と思っているのですが(そこまでの話をあまりしたことがなかったような気がします。今度聞いてみようかな?)

しかし、東京のWSは六本木です。朝からカオススティックに交差点で大声で歌っている人がいたり、オール明けの人がいたりとおおお、と懐かしいような色々な気持ちになります。家の中でオールになることはあっても外ではもうなかなかないですよね。場違いではないと思うけど、どうかな?!アシュタンガもうしていないから入れるかな?大丈夫かな?!という感じでした。
もともと色々なことがあってハウスシェアをしていたのですが、一緒にいたMさんの先生だったんです。わたしがそのおうちにすむきっかけになったのもキャメロン。当時どうしようか迷っていて、わたしは動物の毛などがアレルギーで苦手だったので内見した時点では無理じゃないかな?やめようかなという気持ちになりながら長谷のカフェ「麻心」に入ったんです。
そしたらそこから出ようとしていたキャメロンにバッタリ。
「あれ?キャメロン?さっき内見してきたんだけど。どうしようかな?!」
キャメロン、「まゆみ、もうそこに住みなよ。」
えええ?!こんな偶然ってあるの?どういうこと?!

ということで人生のキーパーソンというか。鎌倉のコミュニティというのは良くも悪くも狭く小さく関わり合いが密になります。わたしはアシュタンガをじっくり取り組む生徒というわけではなかったのでキャメロンにはあまり教わらなかったんじゃないかな?だけど、どういうわけかテクノとかハウスとか音楽の話などで盛り上がって、随分と仲良くなった(と思っていますが)記憶があります。一旦ニュージーランドに帰国してから日本にまた戻ってこようとしたこともあって、その時一瞬Mさんのうちにきたのでわいわいと四人くらいで住んだこともあります。(私が通訳担当)むりやり倉庫みたいなところで寝ていたみたいでダニかなんかがでてきたみたいで夜中にtoo duty!とか言って階段から急いで降りてきたこともあって(汚すぎる?!)みんなで大笑いしたり、バスタオルをなぜか庭の木にかけて乾かしたりしていて、?!みたいなことがいっぱいあって、なんか面白かったなーという記憶しかありません。
わたしも今みたいなマインドのブロックがかかってなかったので、すごくぐいぐいおしゃべりしていた記憶があります。わたしはこの10年でいつの間にか自分を抑える癖みたいなものがついてそれはいい意味で日本で生きるには役立っているのですが、英語を話すにはいらないブロックみたいなところがあって、「あんなに話していたのはなんだったのか?!」と思うこともあるけど必死になっていま英会話をまたやり直すことで取り戻せたらいいかな?!という感じでいます。

タイトルから外れます。ヨガを長くする人というのは、どこかしら既存の枠組みに違和感を持つ人たちです。要するにはみ出しものですねw ヨガの先生がちゃんとしているのか、というとそれは甚だ疑問で、もちろんヨガの知識は深いけれどほかはやっぱりある程度大胆に自由な人たちのような気がします。この世の中が窮屈に感じなかったらヨガを長くすることにはならないはずだと私は確信しています。(私もその一人ということ!)
もちろんその中でも忙しい仕事に取り組みながら、ヨガを続けるという稀有な人もいますが、大体はいわゆる「会社員」は選ばない、いや、選べない人が多いと思うんですね。だからそんな人同士は、そこまで会話しなくても阿吽の呼吸があるし、仲良くもなるという感じです。
(もちろんビジネスとしてするには大変だと思います)
いわゆる大きなヨガスタジオを経営している人たちってヨガをしている人ではありません。ビジネスをしているんです。(いっぱい店舗がある会社などですね)ビジネスとしてヨガを捉えるとたぶん赤字になるので、ダンスとかいろいろな事業で補填したりしているんじゃないかなと思います。
わたしもそういうところでお世話になったし、ダンスのクラスの合間にヨガのクラスだったとしても、人がたくさんくるのでクラスをしていましたし、そこでも自由にヨガのクラスができていました。

ヴェーダーンタなども学んで思うのは、私はヨガはビジネスにするのは難しいかな!と今のところは思ってるんですけども、ヨガを教える人も、学ぶ人もあまり金銭的に悩まずにできたらいいのにな、と思ってもいたりします。
コロナでオンラインのヨガがけっこうたくさん行われるようになったと思うんですけど(youtubeも含めて)、そうなるとスタジオでわざわざする必要がなくなるので、いわゆるスポーツクラブ以外のヨガスタジオは人が戻っていないかなと思うんです。試行錯誤しているお世話になっていた小さめのスタジオの先生もいます。(そのなかでもアシュタンガってわりと特殊で、頑張る人が多いので、スタジオで練習する人も多いと思うのですけども)
英会話とかもそうかもしれないですね。だから、その中でどうするのかというのはわたしはまだわからないでいるんですけど、あまりお金がかからない会場でたまにこういったWSをすることが現実的かなという気もしています。

ヨガってなんだかんだいってスポーツのようでエネルギーワークなので、すこし言葉だけでは説明がつかないところもあるのですけれども、エネルギーのつながりみたいな意味合いも多くて、エネルギーで呼び合うところもあるような気がしています。

長くなりましたが、肉体がないとできないこともたくさんあるので、ニュージーランドに行くよりはいいかなと久しぶりに会いに行ったのですが、エネルギーが交流できるのが一番大きいかなという感じでいました。
ちょっと変な話なんですけど、私は集合写真などが苦手でおそらくずっと前列に並ぶことってなかったと思うんです。写りが悪くなったらやだな、とかね。色々気にしたりしてw だけど、前列の前に座るようになったんだなと写真を見て思ったんです。先生の隣になんて普通座らないかな?私の場合ちょっと特殊で、先生という感じでもなくて友達という感じなので別に平気(敬意は払いつつも、とくに恐縮する理由もないので!)なのもあったんですけど。だけど、やっぱりわたしは手術をして、そしてヴェーダーンタを学んでなにか大きく変わったところがあるんだな?と思わざるを得ないのです。

呼吸法などでたまに出てくる表でも見ると思うのですが、プライドとかそういったものって下の方の意識なんですね。上の方がいわゆるワンネスというものに近い感じですね。恥ずかしいとか、負けたくないとか、人と比べるとかそういうのは下の方の意識で、ヨガをした後とかそういう時にはそれが出にくくなるというか、本当はヨガをしなくてもそういうのがない人もいますけども、そういうのが小さくなってきているかもね、と思ったんです。
(もちろん、わたしだってかなりいい生活をしている生徒さんを見ると、いいなー!とか思ったりはします 笑 だけど同時にどうしようもないよね!タワーマンションに住めなくても!みたいな気持ちにもなります 笑)
それはやっぱり魂は永遠だとしても、命は限られているから、そんなことに時間を使うのはもうもったいないよね!と思っているからなんだと思うんです。エゴに振り回されてももう仕方ないという感じですね。
単純に忘れっぽいのもあるのですが!

亡くなっちゃった友達とか、たまに歩きながら思い出すんですよね。彼女が精一杯生きたのは、もう死期があるとわかっていたからなんだろうな、って。なるほどな、って。
だから、もっと自由に生きたっていいのかもね、って思うんですよ。

何か壮大になってきましたけど、私たちはお金だったり肉体だったり色々な制限を感じますよね。だけどそれはきっと幻想に過ぎなくて、行動するとその霧は晴れるんだと思います。大人になるとその霧が分厚くなって、幻想に包まれて、文句を言いながら日常を変えることをしなくなります。
そうしてお尻に根っこが生えて人生が終わってしまいます。
だけどそれって勿体無いのではないかなと思ったりしています。

だったらできない理由を探すのではなく、できる理由を探しましょうと思うのです。そして行動しましょう。足りないことを数えるのではなく、今あることに感謝しながらできる努力をしましょう。光を見ましょうと思っています。ちょっとこれではタイトルを変えなくてはなりませんね。
まあそんなことを思いました。時間があるのでプラーナヤーマの復習をしながらエネルギーの変化を感じていきたいと思います。

肉体と人生と宇宙を楽しみましょう。





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