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友達作り下手な息子にやきもきするのはなんでだろう

どうも、まゆみっこです。

最近4歳になった息子がいるのですが、保育園では狂ったようにパズルをして没頭しているそう。「集中力がすごい」「没頭できるっていいことですね」そう先生たちに言われたのですが、少しもやった気持ちを今日は書いてみます。

息子が友達と遊んでいる様子が見えない

保育園の帰り、とある同じクラスの男の子同士が仲良く遊んでいるのを見て、一緒に走って混ざりに行くんだけど、イマイチ相手にされていないように見えてしまったのだった。

「今日はどのお友達と遊んだの?」と聞いても、「〇〇くんが、XXくんと遊んでたんだお!」と、他の友達同士が遊んでいる様子しか教えてくれない。

でも、本人は目をキラキラさせながら、「今日はブロックで、シマホをつくったんだお!」「今日はパズルでいっぱい遊んだお!」と遊んだ内容は、事細かに教えてくれる。

本当に楽しんでいるのかな、と少し不安になる私がいた。

私の場合は銀杏の葉っぱ拾いだった

正直、私自身は幼稚園が全く楽しくなかった。毎日憂鬱だったし、やりたくもないお遊戯をやらされるのはかったるかったし、友達と一緒に遊ぶのが一番苦手だった。

だから、ずっと倉庫の裏に生えている銀杏の葉っぱを一生懸命、ひとりで拾っていた。沢山の葉っぱの茎の部分をひとまとめにすると、銀杏の葉っぱが花束みたいにゴージャスに見えて、よく先生に見せにいっていた。

早く帰りたい。でも、自分の意志で帰れないし、友達と一緒に遊ぶのも楽しくないから、葉っぱしか集められない。

でも、あとで子どもの写真を見返すと、友達と一緒に遊んでいる写真もあるんだよね。覚えてなかった、そんなこと。

親のバイアスを混ぜ込んでいないか

なので、ふと心配になる。息子はパズルが大好きで熱中しているのではなく、パズルしかやることがないのでは・・と。

が、結局この心配は杞憂に終わった。

保育園で心細くなった娘が、兄のクラスに遊びに来ても、そっちのけで「あぁ、あとでね」と、生返事でパズルをせっせとやっているんです。と、先生から聞いて、あぁ本当に夢中だったんだ、よかった、と安堵したのだった。

というか、幼少期の私の友達をうまく作れず寂しい思い出が、息子が友達できていなくて可哀そうバイアスを育てていたんじゃないか、とふと気づく。

こわっ!!!

怖すぎる!!!

友達の多さが正義という価値観

我々は人間になる以前に、類人猿であり、集団行動で生きるサルなため、多数者の専制に負けがちである。

「友達100人できるかな♪」って、かなりの暴力性をはらんでいる。

大人になった今では、いやいやいや全然100人作る必要ないって!とごく自然に思うのですが、集団生活の中にいると、集団が勝つので、友達が出来ないことが妙なコンプレックスを生んでしまう。

そしてもう1つ。親は自分の嫌だったことは、子どもにはさせたくないという性質がある。これを組み合わせると、どうなるか。

友達が多いことが正義→多くなかった自分は弱者という意識が生まれる→寂しいし嫌な気持ちになる→子どもの友達出来ない様子を見ると、もやもやしてなんとかしたくなる。

はい、出来上がり!今の私は、この状態になってました!

熱中しあえる環境を提供したい

狭い集団社会の中で、熱中していたものから顔を上げると、いつしかグループが出来上がっている。ふと寂しさを覚えて、熱中したものを机に置いたまま、友達づくりをそれなりに勤しむ。

今思えば、なんてもったいないことをしていたんだろう。

でも独りぼっちで一生熱中していられるほど、クレイジーな奴はそうそういない。誰かと共有することで、相乗効果や新たな熱中を生み出す。なので、できれば熱中しあえる仲間って、ここにいるよ~って最初はガイドしたいのが今の思い。将棋サロンとか、まさにそうですよね。老若男女、みんながその熱中を共有できる。子どもでも、大人と友達になれる場がある。

そういう場が必ずあるはず。探そう。今の時代なら容易に見つかるはず。

まとめ:これからは個の時代。親もアップデートしよう。

これからは個の時代だと呼ばれます。

熱中したもん勝ちで、好きなことで食っていける環境になってきている。組織に捉われず、柔軟に自由に生きていける選択肢も増えてきている。

なのに親がアップデートしていないと、子どもはいたくない組織や集団にいなくてはいけないと思い込んでしまう。

学校に行くという常識も、できれば無視した状態にしたい。できるかなー(飴屋家を見習うんだ)。

とりあえずパズル大好きな人が集うコミュニティってどこだ・・?と、調べるところからはじめてみよっか。まゆみっこでした。

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