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中川大志の舞台「歌妖曲」を観劇した人に、すごく聞きたい

初の新歌舞伎座にて、がっつり見てきました。

はじめまして 新歌舞伎座

感想書き始めたらすごく「あそこは?」とか気になるところも多くなるくらい(笑)
生バンドに歌うまい演者さんばかりで、音楽も舞台も楽しませていただきました。

★ライトな感想と会場について

◎席について

2階席のど正面の席。
キャパ的には全然狭いから、舞台の観劇はそこまで席を選ばなくても見やすい劇場だとは思う。
ただ、フライングとか上を使う演出は、3列目までじゃないと見れないところが出てきそう。(なお、そもそも新歌舞伎座でフライングができるのかは不明。)
今回は英語とかライトはふんだんに使われてるけど、フライングはないから、何の問題もなく良き座席。「空調効かせます」って言われたけど全然聞いてなくて暑かった。
裸眼でも中川大志のご尊顔十分に見れます。

◎うたうま&生バンド

昔、三浦春馬が「ネガティブハッピーチェーンソーエッヂ」だったと思うけど、映画で歌を歌った時に、監督から「彼らは俳優で歌を歌う仕事じゃないけど、役としてならこんなに歌えるんだ」みたいなことを言われていたのをすごく覚えている。
今でこそ三浦春馬という俳優が歌えるのなんか当たり前だけど、その時はまだ駆け出しも駆け出しだったし。

歌う中川大志を見た時に、すごくその言葉が浮かんだ。そんな歌いっぷり。
桜木輝彦は堂々とした歌謡界のスターで、手足の長さと甘いマスクは、おそらくMyojoの表紙を飾っただろうことが容易に浮かぶ。勝手な想像だけど、山口百恵と松田聖子の掛け合わせを男性にしたら桜木輝彦。

(これは中川大志)

◎最初は時系列難しい

最初の方は、過去を行ったり来たり、現代の音楽特番クロスオーバーしてたりするから、中川大志が主人公「鳴尾定」か「桜木輝彦」かとかで把握する感じだった。
一応「◯◯から◯年」とは出るけど、冒頭が手術シーンだったのと、音楽番組が桜木輝彦デビューから複数年経ってるからたまに迷子になる。

でもストーリーは追えるし、ちゃんと集約されていく。最後に「え、ずっと武道館に繋がらない!」が「繋がった!ずっと奇声だけどね」はここに繋がっていたのかー!ってなった。

◯誠二(浅利陽介)が作中唯一きちんと定を受け入れていた人だったな。ヤクザでチンピラなのに1番人だったよ…。作品の良心だったよ…。クリスマスヤクザ…。

◯鳴尾イサムパパマジ嫌い!!やだ!こわい!!悪いやつ!
定のことめちゃめちゃ呪うし、小さい頃の呪いって大人になっても効果抜群だし、定目線だとどれだけ歳を取っても「こわい存在」だった。
あと、欲や執着とかそういう生命力の塊で、だからこそ光としての利生に縋ってたっていうのすごくわかったわ。人間がピュアなものを好む真理ですね!

◎最後の「彼方の景色」であんなに怖かったイサムパパノリノリでかわいい。浅利さんは衣装クリスマスヤクザ過ぎてツリー扱いされててさすが。キッズウォー時代から存在知ってて相棒も見てたから生で見れて結構嬉しい。

「まっすぐ目的に向かっている奴が、どれだけ進んでいないように見えても成し遂げる」と言ってから葬式の中ザ・アイドルで歌う松井玲奈はクレイジーアイドルかましてましたね。方向性違うとはいえ、往年のAKBファンはそこに違う形で「まじすか学園」のクレイジーキャラ、ゲキカラを見るのかなって大学の友達を思い出しました。めちゃいいセリフなのになかなかクレイジーシーンでしたね。地味にお坊さんやってたの山内さんだったしね。ヤクザさんそれするのはさすがに。

◎中川大志がかわいい
最後の挨拶とか、ちょこちょこ父親役の池田成志さんに教えてもらいつつしてた。仕草で「退場するよ」みたいな。
それを受けつつ、「わかってない座長で…」とか、なんか天真爛漫感はあった。最後に「彼方の景色」を歌ってて、周りがちょっと距離ある時に「俺を一人にしないで」とか言ってたり。周りに支えてもらって座長をやってたんだなぁ、と思ったし、そうやってカンパニーで作り上げるのが舞台なんだな、と感じました。
きっと、私の担当たちもそうやっていろんな方に支えられながら舞台を踏んできたんだろうなぁ、って。人はそうやって育てられていくんだなぁって思ったよね。そういう意味でもかわいかったよ中川大志。

◎中川大志がかわいい2
桜木輝彦で出てきて、あれがサマになるのはさすがよね。かわいかった。あと、最後「彼方の景色」歌い終わってぱーんっと金テープが出たんだけれども、それも演者は知らなかったらしい。
「え、俺らも知らなかった」「まだそんな予算があったんですね」とか言ってたもん。かわいい。最後「外雨降ってるみたいだから!雪かもしれないから!気をつけて帰ってくださいね!(ニュアンス)」とか言ってくれてありがとう。

◎中川大志がかわいいその3
離れていてもわかるお目目きゅるきゅる感。すらりとしたスタイル。
だけど、最後のあいさつで「あ、慎ちゃんの友達なのわかるわ」って思った素直ぽさフレッシュさ。これからも慎太郎と仲良くしてね。「メリークリスマス!」って言ってくれてありがとう。
帰りに一緒になったお姉さんが「中川大志にメリークリスマスって言われたから人生最高のクリスマス!!!」ってすごく喜んでました。私も嬉しかったですありがとう中川大志。

★がっつり感想

◎ストーリー

昭和40年代の歌謡界に彗星のごとく登場し、瞬く間にスターダムに駆け上がった桜木輝彦(中川大志)。
そのベールに包まれた経歴の裏側には、戦後の芸能界に君臨する「鳴尾一族」の存在があった。元映画スターの鳴尾勲(池田成志)が手掛ける、愛娘の一条あやめ(中村 中)と愛息の鳴尾利生(福本雄樹)は、スター街道を邁進中。フィクサー・大松盛男(山内圭哉)が控え、今や世間からは、大手芸能プロダクションと謳われていた。
だが、そんな鳴尾一族にあって、存在を闇に葬られた末っ子がいた。
ねじ曲がった四肢と醜く引きつった顔を持つ、鳴尾定(中川大志)。

一族の汚れとして影の中で生き長らえてきた定は、闇医者の施術により絶世の美男子・桜木輝彦に変身を遂げ、裏社会でのし上がろうとするチンピラ・徳田誠二(浅利陽介)と手を組み、同じく鳴尾家に怨恨を抱くレコード会社の女社長・蘭丸杏(松井玲奈)と政略結婚し、自身の一族に対する愛の報復を始める。
その血に……運命に……復讐を遂げるべく、桜木輝彦による唄と殺しの華麗なるショーが幕を開ける───。

音楽劇『歌妖曲~中川大志之丞変化~』より

〇鳴尾定にとってなぜ徳田誠二は「光」にならなかったのか


愛されるという意味ではない、文字通り秘され、蔵に込められた"秘蔵"の子の復讐。奇しくも外見以外の才能はあふれていた。骨格をしめあげ整えれば、そのスター性は兄をしのぐ外見になっていたし、華もあった、という。

自分を虐げた家族への復讐は、一族経営の「鳴尾プロダクション」を破滅させること。家出をして、乞食として生きて、町のチンピラで同じ相手に恨みを持つ徳田誠二と出会う。徳田のピンチを救い、徳田の仇敵を射殺したことから、誠二は定を兄弟分として扱い、定の人生は始まっていく。

そう、定の人生は、誠二との出会いからだった。舞台で兄の利生は父勲の光であり、定の触れられない灯のように語られていたけれど、実際定にとっても光は誠二だったんじゃないか。
定を受け入れ、定とともにのしあがり、定に協力し、定を気遣う。そんなキャラクターは誠二くらいだった。天使の如きに描かれていた利生のフィアンセの虹子も、多分自分を怖がらずに接してくれた存在として神聖化されていたように思う。ハンカチを持ち続けてそれを返すあたりからも、定にとって「自分に普通に接してくれる存在」の重要性が描かれている。
ということは、定に協力し、定を兄弟として扱い、定と酒を酌み交わす誠二は光以外の何物でもなかったはずだ

定にとって誠二は間違いなく重要な人物で、それは誤って誠二を撃ち殺してしまった時の絶望からもわかるけれど、でも定にとって誠二は光のような存在には感じなかった。

つまり定は、「美しい家族」に仲間入りしたかったのだろうか。
己が見にくいからこそ、そこにあこがれを抱いだのだろうか。
対等に接してくれる存在の誠二はあくまでヤクザであり、陰の存在。美しくきらびやかな世界の住人ではない。

(ちなみに、最後に誠二も親に捨てられたことがしれっと語られる。多分そうだろうなって描写はあったけど最後にしれっと言われた。漁師に育てられたらしい)(しかも定と母親の崖落ちシーンを見てたっていう)

のちに、定は自身を桜木輝彦という美貌のスターとして売り出す。自身が桜木輝彦としてデビューしたのは、定の復讐として「兄の利生を潰す」っていうのもあるのかな?と思っていたけれど、唯一利生だけは定に優しかったという描写も台詞もあって、兄の事だけは表向き憎みきってはいなかったようだから、定の「本来の復讐劇」は何だったんだろう…と感じていた。
これについては兄弟分となった誠二にも「あいつなりの復讐があったはずなんだ」と言っていたから、あったんだろうと思う。それが蘭丸杏の復讐心によってねじ曲がって行ったのは、解釈違いではないらしい。

定の願いと復讐を、果たして定自身はどう考えていたのだろう。

…まぁ、1人で何かをやっていても、やり始めると「あれ、なにがしたかったんだっけ?」と思うのに、人の思惑と絡むとなおさら思ってもみなかった方向に行く。それでも人と何かをすることでしか大きなことはできない。
定は家族をはじめ、人との関わりが非常に乏しかったから他人が自分をそのまま受け入れないことが当たり前で、うま味があるからこそ自分と付き合うと考えていた節がある。作中蘭丸杏と結婚するというのも、個人的には「結婚」の必然性はなかった。ただ、自分1人では叶えられないからこそパートナーとして逃げられないように契約して縛る、そういう意味合いの婚姻だったのか、あるいは「美しい」存在との婚姻、に意味があったのか、そこにかすかにつながりを求めたのか。まぁ、その蘭丸杏のことも、兄利生が復讐の中で命を落としたことをきっかけに殺してしまうわけだけれども。そして、そこから社会的に鳴尾一族を「追い詰める」段階から、「鳴尾家殺し」がどんどん始まってくるわけですが。

こんなに大それがことじゃなくても、やっていくうちに自分が何をしたかったかわからなくなるから、ちゃんと最初の思いは目に見える形で残しておこう、って自分を振り返って思った。急に生活感漂うけど(笑)

〇進んでいくエンターテイメントと復讐と人気の「桜木輝彦」


「桜木輝彦」が求められ、愛されるたびに、「鳴尾定」としての彼は何を感じていたのだろうか。

歌うことに好きも嫌いもなかったかもしれない。作中、復讐されることを恐れて鳴尾家長女一条あやめが、娘の希子を逃がすも、結局娘はスラム街に放り込まれていた、と発覚する場面がある。

その後希子は帰国し歌手としてデビューしているのだが、「歌は生きる糧だった。気付けばスラム街に捨てられ、何もしなければ飢えるだけだった」と淡々と話すところがある。

定にとってもの「桜木輝彦」として脚光をあびた日々も、ただ「鳴尾一族に復讐する」という、ただそのためのステップでしかなかったのだろうか。

桜木輝彦を演じ続け、その状態のまま歌手として歌い、俳優として演じる。その時間も全て復讐のためのただのステップだったのか。
せめて歌うことには、自分の楽しみは一欠片もなかったか。とか考えてしまうのは、それこそ平和に生きている「贅沢な発想」なのかもしれない。
第一部にある、利生と桜木輝彦が一緒に歌うシーンは、利生は知らないとは言え兄弟歌唱か…と思うと、そこには心の繋がりを求めてしまう。
そこには復讐心はきっと介在していないのではないか、と。
でもそう考えると、定にとって歌は「想いの表現」の術になる。

ここの解釈、もちろんパッキリ分かれるわけじゃないと言われるだろうけど、ほかの観劇した方はどう思われたんだろう。

◯鳴尾定の最期

どうであれ、定は最後に歌う。
瀕死の怪我を負い、良心の呵責に耐えかね、自分が手にかけてきた人たちの亡霊に苦しめられても、亡霊が自分の衣装に触ろうものなら、「俺の衣装だ」と奪い取り、最後の最後まで「桜木輝彦」になろうとする。そして、力及ばず、「桜木輝彦」になりきれぬまま、ステージに出て、歌う。それが、縦軸で進んできた「オールスター歌謡祭」のトリである桜木輝彦の武道館の中継だ。
もちろん求められているのは「桜木輝彦」であり「鳴尾定」ではない。よって、定はやはり虐げられるが、定は武道館を燃やし、燃え盛るステージの中で歌い上げる。

「俺はここにいる」と示すように。血を流しながら歌い上げる。

「鳴尾定」として歌い上げ、ステージで死ぬ。
芸能一家鳴尾家のなかで、ステージで死んだのは定と姉の一条あやめだけだ。あやめは自分のコンサートのアンコール中に正気を失いステージから落ちて死んでしまうから、鳴尾家としては大変皮肉なことに、最も芸能一家の一員らしい死にざまだったのは定だった。

生まれて以来空気の如き扱いを受け、ずっと影を生きてきた「鳴尾定」が、燃え盛る火に照らされながら、テレビ中継をされ、武道館に詰め掛けていた観客の前で(あるいは観客を巻き添えにしながら)己の存在を示しながら死んでいった"ラストステージ"について、良い言葉をいまだに見つけられないでいる。

◯親子の愛


「親は自分の子どものなかに自分の理想を見れば愛し、嫌な部分を見れば嫌う」

こんな台詞が、劇中にあった。利生の葬儀から帰ってきて、勲の意気消沈した姿に、定、蘭丸杏と誠二が祝杯をあげる場面だ。
自分の子どもを育てるということは、自分の嫌な部分ともかなり向き合うことになるのだろう。違う環境で育った他人だって、相手の嫌な部分は自分の嫌な部分だったりすることもあるくらいだ。

「バカな息子を、それでも愛そう」というのは、ONE PIECEの白ひげことエドワード・ニュー・ゲートの台詞で、たまに私の頭に響く言葉でもある。

勲が定を疎んじたのは、おそらくその外見だ。「外見だとでも思ったか」とか勲は言ってたけど、それは定自身に「世間体ばかり気にしてきたお前が今さら中身とか言うのか(ニュアンス)」みたいに論破されている。

この言葉が実際のところ、どうなのか。程度の差こそあれど、気になる。なかなか人には聞けないけれど。


と、ここまで6000字を超えて感想を書いている。(笑)
答えが出ないもの、書いているうちに自分の中である程度形になったもの、されに気になるところ…3時間くらいかかってこの感想を書いている。
それでもきっと、一緒に感激した人と話したら、もっと深まるし、もっといろいろ出てくるんだろう。これはリチャード三世と昭和歌謡界を絡めたものだけれど、昭和歌謡界のバックボーンや当時の芸能プロの成り立ちや映画の配給云々とかももっと突っ込んで知れば、もっと違う見方もあるんだろう。

なるほど、舞台観劇っておもしろい。

◎最後に、おつかれ座長中川大志
桜木輝彦の歩き方と鳴尾定の歩き方全然違うし、定の歩き方本当に腰やりそうだったし話し方喉やりそうだったのに、48公演もやりきってすごい。しかも自分よりも経験ある人たちの中で、自分の名前を冠した舞台、ってかなりプレッシャーもあったと思う。多分。中川大志のメンタル知らないけども。でも、あの晴れやかな顔と「また最初からやる?」「嫌です!」のやり取り、あの舞台観てたら、かなりのエネルギーを注ぎ込んでいたのもわかる。舞台ってすごくハイカロリーなナマモノだって感じた。ジャニーさんが舞台を愛したのも、すごくわかった。そんな舞台を座長としてやりきった中川大志、すごいよ。おつかれさま!!!そして、舞台観劇の楽しさを教えてくれたこのカンパニーのみなさん、おつかれさまでした!!
ありがとうございましたー!



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