noteを半年ほど放置して、実感すること
タイトルの通り、実生活をがんばっていたら、noteを半年ほど放置していた。それはそれで自分なりにがんばって生きていたけど、どこかモヤモヤしていたのも事実だった。あ、また投げたな、私って。
〇そんなときに出会ったあいみょんの言葉
必ず届くと信じた音楽は、リリースから3年経ってたとしても、歌い続けていればこうして広く届くんやと今年は彼等に強く教えてもらいました。
私も自信になったし、もっと頑張ろうって思ったなぁ。あいみょん大賞あげる!いらんか!
あいみょんが手掛けたDISH//の「猫」が賞(レコード大賞の優秀賞だったかな?)を獲った時にしたツイートだ。「あげる!いらんか!」の書き方からあいみょんで、茶目っ気があってとっても好きなのだ。
そして先日本を読んでいて、こんな一節に出会った。
音楽はあらゆる例の中でもっともすぐれたものだ。
なぜなら音楽が支えられているのは声楽の場合でさえも意志にほかならないから。その後にはじめて快さが生まれるものである。
アランの「幸福論」の一説である。
つまり、どんなことにも、そこには本人の強い情熱が宿っている、という言葉だ。
しばらくnoteの更新から離れていた。思えば、日々の気付きを拾い上げる余裕がなく、その気づきをアウトプットにまで昇華できる余裕もなく、どんどんnoteのハードルが上がっていた。読書のハードルも上がっていた。意味のある本を読まなければ。意味のあるアウトプットをしなければ。
すべてのハードルが上がっていた。
連動させているTwitterもほぼ停止状態だったが、通知がくることがあった。それは、自分の書いたnoteがRTされたという通知で、私の知らないところで、私が書いたnoteが誰かの共感を得られた、という事実を教えてくれた。
〇誰かが読んでくれていたnote
フォローしてくれる方が44名いて、ダッシュボードを見ると、放置している間に3万ビューを超える記事が生まれていたし、初めて書いた記事は1万ビューを超えていた。いつの間にか、1000ビューを超えている記事もわりとあった。
(↑SixTONESの記事で66スキついてるのもまたよし)
ビューのわりにスキの割合は、とか言い始めるとそれはまた別の話になるけれど、結構嬉しかった。確かに意志を持って書いた記事が、誰かの目に触れて、誰かによって紹介された。山田涼介のnoteは、本当にずっと思っていたことをやっと書けたから、当時はそれだけでやりきった感があるのを覚えている。
継続と言う観点では、私のnoteへの向き合い方は褒められたものではない。けれど、意志を持って書いたものは、きっと届く先がある。
それは、リアルタイムでなくとも、いつの間にか広がって、誰かに届いている。
肩の力を入れすぎず、自分の言葉に責任を持ちながらやっていこう。
だけど、ハードルは上げすぎずに行こう。そう思った。
ということで、相変わらずジャニーズや本のアウトプットなど、雑記となると思いますが、みなさまお付き合いいただければ幸いです☻
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