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③基本の「き」

自分の話しを少しづつ順を追って書いて行くと・・・
とりあえず、基本の小学校くらいから始めようかな?
長っ!古っ!と、思っても少しだけお付き合い下さいね~。

当時、女の子の習い事では定番のピアノ。
小学校4年生くらいの時に、私と妹も もれなく一緒に通い始めました。
私的には、本当は「エレクトーン」がしたかったのですが、
当時、家には「オルガン」しかなくて、ピアノならオルガンでも練習出来るというのでピアノを習うことになりました。
ですが・・・
これは「気分屋」の先生が嫌いで「黄色いバイエル」で辞めちゃいました。
その時の機嫌によって、子供相手でもフツーに怒ったり
そうかと思ったら、次に行った時は同じことをしても
ニコニコ笑ってたりする先生で、そーゆー所が嫌いでした。
ちなみに妹は、その後もずっと続けていて短大卒業くらいまでしてたと思います。

もう1つ当時の定番は「そろばん」ですね。
小学校3年生の時に算数の授業で九九(掛け算)が出て来て、
それが全く覚えられず「私に算数は無理」と諦めてしまったもので(笑)
算数は大の苦手で成績も悪かった事もあって、ほぼ強制的に「そろばん」に行かされましたね~
ま。結果的には、掛け算できないのに「そろばん」が出来るわけもなく
最短記録の「3日」で辞めました。
「あなたの お名前なんてぇ~の?♪」と「トニー谷」の真似は出来たんだけどなぁ。
※知らない人は検索してね。

その後、とにかく「算数」が苦手だったので
これも半強制的に「くもん」にも行かされましたが・・・
この先生が、ヒジョーに厳しい先生で、まるで「魔女」みたいだったww
とーぜん続くワケが無く・・・3ヶ月くらいで辞めたと思います。

ついでに、近所で「お習字」を教えてた「おじいちゃん先生」の所へも通ってましたが、ここは逆に楽しすぎて♪
何年間も通ってたわりには
ほぼ、お友達と遊びに行ってたようなものだったので、
残念ながらキレイな文字は全く身についてません。ww

自分が好きでしてたのは「手芸教室」と「バトン トワリング」
手芸教室は、近所にあった「ガラス屋さん」の奥さんが
月2回くらい、自宅で子供たちに 編み物 や 刺しゅう を教えてくれていて
自分の行ける時に1回¥500円を持って行けば教えてもらえるシステム。
これが とにかく楽しくて、手芸だけじゃなく
オヤツの時間に、皆でドーナツを作らせてくれたり
クリスマスの時期にはプレゼント交換をしたり
小学校卒業するまで、ずっと通ってて、
編み図の読み方などは、ここで教えてもらいました。

「バトン トワリング」は・・・
私の通ってた小学校では、高学年の5・6年生が全員で
運動会や地元の お祭りで「鼓笛隊」をする事になっていて
その中でも花形☆女の子の憧れ♡が「バトン ガール」
ところが、当時は選抜式で6年生(40人×5クラス)の女子の中から
たった「10人」と言う狭き門でした。
まぁ~
今にして思えば、学校には それしか衣装や道具が無かったんでしょうけど。
問題は、その選考方法。
先生が選ぶのではなく、先輩達が次の10人を選ぶ。と、いう
「継承」的な?方法でして・・・
(鬼滅でいうところの「継子」的な?)
ここで、とーぜん。いかにも「女子」的な問題が出て来るんですよね~
バトンガール希望の女子は、5年生になった時に「バトン部」ってものに入部します。
そこで先輩たちから演技を教えてもらい、練習を続け、6年生が卒業する時に引退セレモニーとして「次の10人」が発表されます。
もう、お気づきですね?
小学校の鼓笛隊程度の演技なんて、言われた通りに練習してれば皆それなりに出来ていて、たいした実力の差はないんです。
ここで大事なのは、入部してからの1年間で、どれだけ「先輩たちと仲良く」なれたか?って事なんですよね~。
この時「女子社会」で、上手く生きて行くには「上下関係」と「要領の良さ」が大事。と、言う事を小学校5年生で学ぶワケです。
ですが。
残念ながら「それ」は、今でもヒジョーに苦手で嫌いな事なんですよね。。
基本的に出来ない。です。はい。
あ。
とりあえず、バトンガールには「補欠合格」したあと、
正規メンバーだった子の1人が運動会前に「転校」した事で無事デビューしました。
私って、その頃からギリギリの人生送ってるんですね~(笑)

今にして思えば・・・
この頃、一緒に住んでいた父の妹×2人には
よく遊んでもらっていたので、多分、色々な影響を受けていたと思います。
上の叔母は、絵を描くのが好きだった私に 絵の具と画用紙をくれました。
絵の具と言ってもチューブに入っているような「絵の具」ではなく
「まぁるい」固形の塊がパレットのようなプラスチックのトレーに
何色も並んでくっ付いていて、筆に水を付けて使いたい色の上でクルクルすると塊が溶けて水彩 絵の具になる物で、私の お気に入りでした。
ある日
「リンゴの絵を描いてごらん」と、言われた私は
フツーにリンゴの形を書いて、全体に赤い色を塗ったのです。
ところが「どうして赤い色を塗ったの?」と聞かれて
「リンゴは赤いから」と、答えた私に
「リンゴが赤いって誰が決めたの?色んな色のリンゴがあったってイイんじゃない?好きな色を塗ってごらん」と教えてくれました。
それからは、ピンク色や色とりどりのカラフルな「リンゴ」を描くようになりました。
この事が無ければ、後々デザイン学校へは行ってなかったかもしれないですね。
その叔母は、今では油絵の個展を開いたり、
市内のカルチャーセンターや洞爺湖畔に設置されている彫刻のモデルなどをしてる人です。

もう1人の下の叔母は、5人兄妹の末っ子だけあって、とにかく自由奔放な人で
私がピアノを習い始めたものの、行くのが嫌になって練習もせずに遊んでる所を母に見つかっては叱られているのを見て
「嫌なら辞めればイイでしょ。無理にする事なんて無いよ」と、簡単に言ってのけた人。
子供ながらに「え?辞めてイイんだ?」と、目から鱗が落ちたような気持でした。
この先、私が色々なモノに次々と手を出すよーになったのは、
この言葉がキッカケかもしれませんね。

今でも大好きな叔母たちで、
うちの子供達も、よく遊びに行ったりしてます。
どちらかと言うと、私は母方よりも父方の血が濃いようで、
一緒に住んでいた「おじいちゃん・おばあちゃんっ子」だった事もあって
「大きくなったら、私はジーちゃん・バーちゃん の面倒を見るから
お父さん・お母さん の事は、あんた よろしくね。」と、妹に言っていた事もあるくらい。
それを聞いてた、おばあちゃん は泣いて喜んだそうですが
母は、逆の意味で泣いてたらしい。
子供の頃は「嫁・姑」の問題なんて、これっぽちも分かってなかったので・・・
ま。しょうがない。


次回は、激動の中学校生活の話しに続きます⇒⇒


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