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【生きる思索としての学問】数学者と哲学者の緊張ある対話の中に。

2月26日(月)

2月も最後の週になりました。
うわあ、あっという間に年が明けて2か月です。時間はあっという間にすぎます。
相も変わらず、暇さえあればオーディオブックを聴きまくっています。
年末の小説フィーバータイムは終わり、最近はまた通常通り、哲学とか対話とか。
そんな中で、思わずニヤニヤしちゃう一節に出合いました。

自己自身に関わるこの関係が他者によっておかれたものだとすれば
それは自己自身に関わる関係であるばかりではなく
さらにこの関係そのものをおいた第三者に対する関係でもある。
このように派生的におかれた関係が人間の自己である。
それは自己自身に関わるとともにこの自己自身への関係において他者に関わる関係である。

「水中の哲学者たち」より


さて、「関係」って何回言いましたか?とクイズにしたくなります。

生徒がこの文章を書いてきたら、同じ言葉を使いすぎないように助言したくなります。

デンマークの哲学者、キルケゴールさんの「死に至る病」です。

複雑で、ただではいかなくて、でも、ニヤニヤしながらワクワクしながら数学者だって哲学者だって、問いを立てて探究し続けている。
その生きる姿勢が私はとても好きで
だから、数学はとっても苦手だし、数学教師なのに数学科を卒業したわけでもなければ
哲学は好きだけど哲学科を卒業したわけでもないけど
この二つの学問の共通に居る
数学者であり哲学者たち、そして、「対話」が、私はおもろくて大好きです。

3年前の2月のブログ、こんなこと書いていました。

◎生きる思索としての学問
古代ギリシャにおいてほぼ同時期に成立した数学と哲学.
今日ではその歴史すら忘れ去られるほど両者は掛け離れて見えているが,
《実用的な解決では満足せずに,根源的な思索をこそ重視する》という点で,
実用性,利便性が支配的な価値観となっている現代においては,なお一層,
隠れた親近性のある世界である.
数学なくしてはあまりに脆い(もろい).
哲学なくしてはあまりに蒙い(くらい).
数学者と哲学者の緊張ある対話の中に,
現代人が見失いがちな知と魂の火花がある.
生きる思索としての学問がある.

「数学者の哲学+哲学者の数学―歴史を通じ現代を生きる思索」


別に、サインコサインが、ということではなくて、
「考える」という本質的にみんなにとって大事なことが
この二つの学問の根っこで、
それを支えるのが「対話」だと思った今日でした。

おやすみなさい。

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