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コロナ世界と五味太郎さん

かつてYahoo知恵袋を何となく読んでいた時、こんな質問に出会ったことがある。


「こんな事、言ってはいけないことだと分かっています」
「あの時はみんな一丸となって繋がっていた」
「だけど、今は何事もなかったかのようにいつもの生活に戻っている」

「震災の頃に戻りたい、と思うのはおかしいですよね」

2011年初夏頃の投稿だったと記憶している。(質問文は思い起こしなので正確ではない)

コメントには「分かります」「私もそう思っていた」という意見が続いていた。

ここで言われている“いつもの生活“とは、どういう生活のことだろう。


震災によって様々な物事が明るみに出た。
中でも一番は、やはり原発ではなかったか。


処理に10万年かかるといわれる原発の別名は「トイレの無いマンション」
ずっと分かっていた筈なのに、誰もが問題解決を先送りにし続けていた。(筆者もまた)
絡む利権、稼働し続けることで儲かる一部の人々、政治との癒着。
あの震災で、一時は自然エネルギーや農業へ多くの層の関心が傾いたにもかかわらず、振り返ってみると今は殆ど変わっていない。原発は続いたし、東電は解体されなかったし、癒着する政治家も暴かれずに今ものうのうと生き続けている。
集団とは恐ろしいもので、頭舵を切るものがいなければ、根本的に全体がシフトチェンジすることは難しい。国の舵取りが同じ道を歩むならば、みな同じ方向へ流される。一時盛り上がった自然エネルギーへの関心はどうしたことか、かつて通り“いつもの生活“に戻ってしまった。

知恵袋の質問者が言っていた「震災の頃に戻りたい」という言葉は、当時私の胸に刺さった。私もまた共感してしまった1人であったからだ。

あの震災でどれだけの人が亡くなったのか、どれだけの人の故郷が消えたのかははかり知れない。一面更地になった住宅地の、瓦礫にラッカーで記された赤い❌マークが遺体発見の目印だと知ったときの衝撃は忘れられない。立っていた地面が沈む心地がした。
あの津波を体験した方の前で、「あの頃に戻りたい」なんて、口が裂けても言えないだろう。それなのに、あの言葉に共感してしまうのは何故か。


あの時、あの恐怖と悲しみの中、何かが変わる予感がした。
人間本意な経済、環境破壊の限界を覚えた。各分野の秀でた者が、振動や音だけでエネルギーに変換できる仕組みを語り、メディア優先でない芸術文化が注目された。

しかし、一時だった。たった一時。その後の政治は真逆にハンドルを切った。物質主義、経済優先主義の方向へ。

数年後のわたしはどうだろう。
コロナ騒動最中の「今」に戻りたい、と思っているだろうか。


世界中が経験し、励まし合い助言し合う動画が世界をまわった。リモートワークが増えて、一世帯マスク2枚の政策に今まで声を上げなかった層が声をあげる。
「今」に戻りたいと思いますか?


何事もなかったかのようにブラックな就業システムに戻り、何事もなかったかのように今の政策がうやむやにされて、何事もなかったかのように力尽きた人達を無き者とし、芸術業界が続いているならば、そう思うかもしれない。
「戻りたい」と。
何故なら、それが変革するかもしれない瞬間だったのだから。
それは今である。

五味太郎さんの記事を拝読し、あのYahoo知恵袋の質問者のことを突然思い出した。知り合いでも何でもないし、もはやネットの海の中でどんな発言だったのか見つけることもできない。
学校の休校を誰が決めるのか、仕事の行動制限は誰が決めるのか。命令されないと従えない私たち。
変革は、私たちの中から始めなければ、また“いつもの生活“はやってくるのだ。

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