序章2 自分という人間を好きになる

自分のことが分からない。

いやいや、自分のことは自分が一番よく知っているでしょう?もう一人の自分がそう疑問を投げかける。

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確かに自分は自分のことを四六時中一秒たりとも逃さずに知っているし、自分の気持ちも自分にしか分からないんだけど、それでも分からないものは何だろうかと考えると、他人から見た自分、結局はそれに尽きるんじゃないだろうか。
こういう言葉に集約してしまうとなんだかすごく当たり前の話に聞こえる気がするんだけど。でも少々長々と書きたい気分。

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「自己肯定感を上げることが自分を好きになれることにつながります。嫌いな部分も認めてあげましょう。」
自分を好きになるには。そんな質問の答えとしてはよくあるように思う。でも、それを聞いてもぴんと来ない。自分のことを認めてあげるってどうすればいいの。分からないよ。分からない。
その思いに転機が訪れた。ほんと、きっかけって人それぞれで、ちょっとしたことだね。いつだって無理やりには変われない。

自分の姿を自分の目で直接見ることはできない。フィルター越しの写真に写る姿か、鏡に映る反転した姿で見るくらいしかない。声も自分が聞いている自分の声は聞こえている声とは少し違うらしいし、機械を通して録音した声もまた違う。
恥ずかしがりな私は、自分のことが記録に残るとなるといつも身構えてしまう。写真に写る姿にも録音された声にもいつも自信なさげな一番コンディションの悪い自分がいる。それが知らない自分、他人に映っている自分を想定するときのコンテンツになるのだから、そりゃあ嫌いな自分から脱却できないわけだ。
好きになれる自分がそこにいるようになればいいんじゃないの?
私のプレゼンに対してもらったある言葉がひっかかった。
「笑顔がステキ!☺️もっとアイコンタクトをとれるといいかも!みんなにステキな笑顔をもっと見せてあげてほしい!」
それを読んで、私いい笑顔をしてたんだって。それを知らないなんてもったいなくない?って。
それ以降、撮ってもらう写真くらい、いい笑顔で写りたい、そう思えるようになった。

そうしたら、笑顔に対する意識をちょっと変えただけなのに、先に見える景色は見違えるようだった。自分の嫌いなところも、ステキなところに変えられるんだって知った。他人から見た自分を勝手に想像してもそれは必ずしも答えではないんだから、その想像の自分を良くしていって、好きな自分を作っていけばいい。そうしたら後から他人から見た自分はついてくる。他人から見た自分は先にあるものじゃない。だからあれこれ気にする必要もないのだ。
そう思うと私の気持ちにかかっていたストッパーが外れて、考えすぎて分からなくなっていた自分のことも分かるようになってきた。許容できる自分も増えた。他人から見た自分なんて気にしていない、なんて気のせいだった。

こう、成り立っているのかどうかよく分からない理論を組み立て終えて、自己の確立という点において未成熟であった心の思春期がきちんと整理されて終わりを迎えられたようなすっきりした気持ちで、ちょっぴり幸せを噛みしめた。
今頃って思うけど。昔から同い年の人たちよりも心の成長がワンテンポ遅いような気がするって思っていたりするけどどうなんだろうね。

考え方って一つ変わればドミノ倒しのように簡単に変わっていくのだけれど、最初の一つがどこにあるのかを見つけるのには時間がかかるときもある。決して無理やりに強引に変えることのできるものじゃないなってつぐつぐ思う。それに、倒したいドミノの場所を探していたら、違うドミノに当たることもある。今回はそのパターン。探しても探しても見つからなかった探し物が、ふとしたときに見つかるときってあるよね。

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ふぅ。文字起こしをして一息ついた。数ヵ月前、夏に起きた小さくて大きな変化を振り返ると、そのときと今の自分は確かに違う気がする。

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