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【随想】魔法がないから面倒くさい現象

1.生活と観念

 ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがあるだろうか。

 主人公ラスコーリニコフが「人類の歴史や社会にとって大きな価値を生むような非凡なる者は、そのために小さな罪を犯したっていい」みたいな観念的思想で高利貸しの婆さんを殺した結果、しかし自らの思想とは裏腹に罪を犯したことによる苦悩から無様にさまよう羽目になる話だ。

 この小説、読んでない人や読んだ気になっているだけの人からは、この「人類の歴史や社会にとって~」の思想だとか、「罪に対して受けることになる罰が~」とかがテーマだと思い込まれているのだけれど、まともに読んだ人なら別にそんなのどうでもいいと分かる。深読みしてできないこともないが、結末まで読んだところで、そういう観念的な問題提起に対して解答を示すような物語とはなっていない。

 ラスコーリニコフは観念的葛藤から生活がボロボロになって、落ちるところまで落ちていくが、ソーニャという女性の献身的な愛を受け入れたとき、葛藤は呆気なく放棄されて、ソーニャとの現実的な生活に意識が移り、社会復帰へと向かい始める。この結末がそのまま、この小説の肝である。

「生活が前面に出たとき、観念の領域は後退する」

 あるいは、「小人閑居して不善を為す」でもいい。これは人間は暇をするとろくなことをしないという意味の言葉で、事実、ラスコーリニコフという若者は大学から除籍されて仕事もなく金もなく、現実的な生活が冴えないもんだから、観念の領域でそれを充填しようとして、ろくでもない思想をこじらせたわけだ。

 生活と観念とは対立する。観念が勝っている間、彼の生活はてんで駄目だったけれど、現実の女性から向けられる愛が彼を生活の領域へと引き上げた。そうなってしまえば、あんなに悩みに悩んでいた大切な観念だろうとお役御免だ。「リア充になったからオタクやめます」というわけだろう。

 これが『罪と罰』である。身も蓋もない、本当に良い小説だと思う。

 しかし、これで満足してはならない。「これで『罪と罰』を読み解いたぜ!」で満足しているとしたら、そいつは自分が今にも縄が千切れそうな吊り橋の上で飛んだり跳ねたりしていることに気付いていないも同然だ。

 現実にソーニャはいない。

 私達が高利貸しの婆さんを殺して無様にさまよい続けたとして、そんな私達に献身的な愛を捧げて〈救済〉しようとする美女なんているわけがない。

 私はこの現象を「魔法がないから面倒くさい現象」と呼んでいる。

2.ユリエンス絶唱

『実在性ミリオンアーサー』を観たことがあるだろうか。

 2014~2015年に放送、配信されていた全25話の番組で、人間が生きていくうえで本当に重要となる哲学が目一杯詰まっているので義務教育にしたら如何かと長年思っているのだけれど、ここではその第六話『ユリエンスの企み』を取り上げたい。

 実ミリはドラマパートにおいて、不意に歌番組めいたセットに転換して登場人物が歌い始めるところに特徴があり、『ユリエンスの企み』では主人公アーサーと対峙した11人の支配者(しかし3人しかいない)のひとりユリエンスが歌唱を務める。

 そろそろ歌う頃かな~?と思って観ていたところで、それまでそんなキャラじゃなかったユリエンスが突拍子もなく「あ~面倒くさい!面倒くさい!」と吠えて強引に始まった歌こそ『魔法があればメンドクサクナイ』である。

 この歌は前半部で「戦うのはメンドクサイ…」「武器を持つのメンドクサイ…」「立ち上がるのメンドクサイ…」「移動するのもメンドクサイ…」と面倒くさいことが列挙され、聴く者の共感を呼ぶ。そして「ねえ、どうすればいいの?」という問いかけからサビに突入する。それまで倦怠感に包まれていたユリエンスは、そこで弾けんばかりの笑顔を見せ、高らかに叫ぶ。

「魔法があるじゃ~な~い!」

 なんとユリエンスは魔法が使えるのだ。「動かなくていい 思うだけ」「楽に全てが手に入る」とのこと。「ああ!めんどくさくない!」さらには「魔法があるじゃ~な~い!」のリフレイン。

 しかし私達にはその魔法が使えない。私達の側にだけ面倒くさい問題が残されてしまった。ねえ、どうすればいいの? 魔法がないじゃ~な~い?

 ある作品において作中人物と観客との間で問題が共有された後、観客では望めない方法で以て作中人物がそれを解決した結果、観客の側にだけ問題が残される現象。これが「魔法がないから面倒くさい現象」だ。

 実はこの現象、いたるところで発生している。あなたの好きなあの作品もその作品もそうじゃないだろうか? まあとにかく『罪と罰』に戻ろう。

3.Final Destination

 私達は生活がうまくいかずに観念に逃げた結果、さらなる生活の不調の中でもがき苦しむことになるというところまで、ラスコーリニコフと問題を共有する。しかしラスコーリニコフだけがソーニャによって救済され、ソーニャのいない私達はどうすればいいのか。

「どうすればいいのか」の前に、「このままだとどうなるのか」を知ろう。

『バイバイ、エンジェル』という小説がある。

 現象学的推理を駆使して難事件を解決していく『矢吹駆シリーズ』の第一作目で、作家・笠井潔の鮮烈なデビューを飾った傑作。

 これはソーニャが現れない『罪と罰』だ。観念の領域に入ってしまった者がどこに行き着くのか、その壮絶な答えが書かれている。

 これを読んだうえで選べばいい。観念の道を進むのか、それとも自らの力で生活の領域へと這い上がるのか。

 いずれにせよ、それは覚悟の上の決断となる。

 覚悟もなく来るはずのないソーニャを待っているのだけは、やめた方がいい。


 というわけで、種明かし。私が大好きな小説『バイバイ、エンジェル』をオススメすることこそが、今回の文章の目的だったのでした。

『バイバイ、エンジェル』は最高。愛してる。超面白い。一生読む。

 ちなみに私がどちらを選択したのかは、こんな文章を綴っている時点で明らかかと思う。

 生活って言葉、大っ嫌いなんですよ。

 いきるいきるって書くの意味分かんなすぎでしょ…。

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