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存在する意義への不安をかき消すかのように社会は欲望を掻き立てる。

1人で時間に余裕がある。周りには何も無い。私は孤独だ。そんなとき、自分は何をすればいいのだろうか。

周りに何もない世界、誰もいない世界の中心で、自分が存在する意義とはなんなのだろうか。

私は不安だ。生きている意味も分からなければ、死ぬ意味もわからない。でもただ1つわかることは、人間はみんな死ぬ。そうやって歴史は刻まれてきた。自分が死ぬ以前にどのくらいの人が死んだかもわからない。それは動植物も一緒だ。

ただ分からないことには不安が残る。それを宗教やスピリチュアルが補っている場合もあるだろう。でも不安だ。存在する意義はわからない。存在しているかどうかもわからない。

人間に存在する意義を与えるのはだれか。「あなたは存在する」と教えてくれるものは何か。

それは他人や動植物、地球との関係性の中に、気づかぬうちに見いだしているのではないだろうか。他人は自分が人であることを教えてくれる。動植物や地球は、私達のやった行為結果が反映されるように、私達にお返しをもたらす。

私達は他者や動植物、他人に監視されることでやっと、自分が孤独でないことに気づく。

しかし今、孤独は孤独のまま放置されてはいないだろうか。更に孤独を生み出してはいないだろうか。孤独感を覚えたときに、どれだけ他者や動植物、地球がおのずと助けてくれる環境があるだろうか。

地面をコンクリートで覆い、広大な畑をつくり、森を切り開き太陽光パネルを埋め、人をランク付けし、点数ではかられ、綺麗な花は葉を取られ花だけ飾られ、動物はケージに入れられる。

そう、生きるものを金銭で動かせるような商品化することに成功した。消費主義社会。孤独を解消する存在(自分の意味を教えてくれるもの)に金銭的価値をつけることで、レア度を管理し、人が群がるように仕向けたのだ。それと同時に、安価なものを大量生産するという手法も出てきた。お金さえあれば、いくらでもものが手に入るようになった。

これはまさに、消費社会が孤独の解消法を包括したことを示す。しかしそれは見せかけでしか無かった。お金さえあれば孤独は解消できるのだろうか。お金で解消する問題は、暖かい関係性を補うことができるのか。お金で買える選択の自由を人達の目の前にぶら下げることで、人をものへの執着へと導き、孤独な人々が孤独を感じないように、さらにものを溢れさせる社会の進む末は。。

現代社会には今までないほどの精神病がはびこる。心になにか孤独感を覚える人はそう少なくない。金銭関係に原因をおく、残酷な事件だっておきている。

存在する意味を教えてくれる存在をお金で買えるようにはしたものの、結果的にお金という経済活動を通すことで何か物足りなさを感じるようになる。そしてよりレアなものや大量なもので孤独感を補おうという競争心をかき立て、お金を稼ぐために関係性を作れる時間や環境を削っていく。そして孤独感は増す。まさに悪循環だ。

消費主義社会が私達に掻き立てる欲望の本質が何で解決するのかを、もう一度個人個人は考え直さないといけない転換期が来ているのかも知れない。

「いったい消費で個人の本質的なさみしさは解消されるのか。」

「消費の連続性がさみしさを更に生み出してはいないだろうか。」

「さみしさのために働く意味などあるのだろうか。」

自らに問う。


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