鄧析とアリストテレスの無限論
こんにちは。トンてつクラブ部長、さとうひろしです。今回は、無限論の東西比較をしてみたいと思います。東洋は鄧析、西洋はアリストテレスにご登場願いましょう。
まずは鄧析です。以前の動画でも紹介しましたが、鄧析は無限について論じました。以下、鄧析の無限三命題を確認しましょう。
第1命題は、物の大きさをどんどん大きくしていって、無限という一点に到ると、無限大においてはその外部が存在しなくなります。逆に、物の大きさをどんどん小さくしていって、無限小にという一点に到ると、無限小おいてはその内部に物が存在しない状態となる、といった意味になっていますね。どちらも、到達点としての無限について述べられているようですね。そして有限な大きさから無限大や無限小へと到ることができる、とも言っています。いわゆる移行の論理ですね。なお、無限小なる物については、第3命題の「厚さの無い物」に相当するんじゃないかなって、思っています。
第2命題は、ムチを毎日半分に分割し続けていくとしても、ムチは決して無にはならない、ということを言っています。ムチを分割する過程が永久に続くので、こちらは過程としての無限になりますね。また、有限な物から無限へと入りこんでいるので、こちらも移行の論理が見られる、と言えるかもしれません。
第3命題は、無限小なる物を積み重ねていくと有限の大きさの物となり、それをさらに積み上げていくと、やがて無限大の物となる、ということになります。無限と有限との間は往来可能だ、ということを言っているんですね。こちらもまた移行の論理に相当するようです。以上、鄧析によれば、無限には無限大と無限小があり、さらに到達点としての無限と過程としての無限があるわけですね。
では、無限について、アリストテレスはどんなことを言っているのでしょうか。アリストテレスの『自然学』で確認してみましょう。
アリストテレスは、プラトンの、無限には大小がある(202a15, 206b30)、という言葉を記しています。これは無限大と無限小に相当するように思います。アリストテレスの言葉で言えば、
となるでしょうか。加えてゆくことによる無限は無限大であり、分割してゆくことによる無限が無限小に相当しますね(アリストテレスは、前者の加えてゆくことによる無限は否定しているのですが)。そしてアリストテレスはこんなふうに続けます。
ここでは、有限な大きさの物が無限大にも無限小にもなり得る、と言っているように思われます。移行の論理ですね。そして、どちらも本質的には同じ手順による、ということになりそうですね。さらに、こんなことも言っています。
「それより外にはなにものも存在しないそれ」とは、物が最大に到ってもはや外部が存在しない状態と同内容であるように思います。到達点としての無限ですね。そして、「それより外に常になにものかが存在するところのそれ」とは、どんなに物が大きくなっていくとしても、外部が存在しないような最大にまでは、決して到達できない、ということを表しているようです。つまり、過程としての無限ですね。
アリストテレスは、アイデアとしては、鄧析と同じく、到達点としての無限も、過程としての無限も、認識していたようです。もっとも、アリストテレスは、「それより外にはなにものも存在しないそれ」については、終結的なものであり全きものであって、無限とは呼べない、としており、本当の意味での無限とは「それより外に常になにものかが存在するところのそれ」である、としているのですが。
全体としていえば、鄧析の無限概念は断片的で、どちらかといえば比喩的であるのに対して、アリストテレスの無限概念は、より緻密であって抽象的かつ本格的であるように思います。皆さんはどうお考えでしょうか。
※『アリストテレス全集3 自然学』(岩波書店、出隆、岩崎允胤訳)
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