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文芸批評断章7-11

7.
島崎藤村「若菜集」の「秋風の歌」が興味深い。

清(すず)しいかなや西風の
まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の
かのもみぢ葉にきたるとき

や、

見ればかしこし西風の
山の木の葉をはらふとき
悲しいかなや秋風の
秋の百葉(ももは)を落とすとき

などの箇所を読めば、情緒の統一がない。秋風に気持ちよさを抱くと思えば寂しさを感じ、秋風に畏怖の念を抱くかと思いきや悲しみを感じる。しかも同じ連の中で感情が揺れ動く。興味深い。例のヴェルレーヌの「秋の日の」から始まる三連の詩には「感傷」という情緒の統一があり、シェリーの「西風に寄せる歌」にも基調には力強く吹き荒ぶ西風に対する賛嘆の念が籠められている。だのに藤村ときたら。きめ細やかに情緒が揺れ動く

8.
ふと連想させられるのが、藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる」だ。この和歌は、季節の変わり目の一瞬に夏と秋と二つの季節が感じられ、そこに深い感動を抱く歌人の姿がある。自然の風物がきめ細やかに捉えられている。藤村のは秋風の到来が二つの感情を詩人に抱かせており、そこに詩人は感慨を覚えている。ここでは詩人の情緒がきめ細やかに捉えられている。同じきめ細やかさでもその対象が異なっている。歌人では自然界であり、詩人では詩人の内面だ。

9.
「奥の細道」序文が面白い。「片雲の風にさそはれて」とあり、また「そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて」とあって、芭蕉は飽くまで自発的に旅に立つのではなくて、何やらに誘われていく、というスタンスだ。主体的でなく受動的だ。何やら尊き者に対する依存的感情の発露だ。しかもそれに衝動的に従うのではなくて入念なる準備は欠かさない。「ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆる」のだから。絶対的依存感情は抱きつつ、まずは何者かに行為を促されつつも、それに対して準備をすることで主体的に応答する。これぞ主客融合。物我一致。西田哲学か?

10.
藤村「若菜集」の「朝」はいかにも若者らしい詩だ。調べは高く、観念的で、具体性を欠き、情熱的だ。

たれか聞くらん朝の声
眠りと夢を破りいで
彩なす雲にうちのりて
よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたに歌はれつ
そこに時あり始めあり
そこに道あり力あり
そこに色あり詞あり
そこに声あり命あり
そこに名ありとうたひつつ
みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに
光のうちに朝ぞ隠るる

以上がその詩だ。特に「そこに時あり始めあり」から始まる一連の箇所に注目せられたし。なるほど朝の光景なのだろうが、リズムと力強い反復があり読めば気分は乗ってくるが、具体性を欠き、若者らしく観念的かとも思われる。

11.
ロマン主義と言えば、その一要素として「想像力を無限に発動させて現実のかなたに自己充足しうる絶対境を打ち立てようと」するものがある(日本大百科全書ニッポニカ「ロマン主義」より)。例えば、藤村の「潮音」がそうだ。

わきてながるる
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
ももかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うららかに
とほくきこゆる
はるのしほのね

想像力を海底にまで及ぼし、そこにある琴を詠む。この琴があらゆる川の波を集め(この「なみ」という二文字はどこかで「なみだ」を連想させる)、春になればうららかに遠くのほうから聞こえるのだ。知覚をはるかに超えたところにあるものを詠むので想像力が無限に発動されている。それを詠むことによって詩人は詩的才能を発揮して満足感を得ようとする。まさしくロマン主義だ。しかしながら、「海の底にある琴が川の波を集めて、時が来れば鳴り響く」といった着想は、実は月並みなものではないのか。ちょっとでも詩人らしく考えればすぐにも思いつくのではあるまいか。海の底、琴、遠くで鳴り響くなど、いずれもいかにも詩人が好みそうな言葉ではないのか。私が言いたいのはこうだ。詩人の想像力は無限ではなく、使い続ければどこかで枯渇して詩作品はマンネリ化するのだ。


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