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カミュの『異邦人』雑感


カミュの『異邦人』を読んでるんだけど考えさせられる。私が高校の時は、もうすぐ平成って頃合いだったけど、現代社会か何かの授業で三無主義って言葉を教わった。無関心・無感動・無気力、だったかな?ま、そういった若者気質らしい。担任からは、「お前らはオレからすると宇宙人だよ」なんて言われた。

担任の世代からすると、私らの世代は三無主義世代だったわけだ。ふうん、そんなもんかと思ったし、確かにな、って思ったりもした。が、いま『異邦人』を読むと、主人公のムルソーがまさにそんなキャラ。この作は1942年発表らしいのだが。

その意味では、『異邦人』は未来を予言してもいたわけだ。文学、すごっ。カミュによると、主人公ムルソーは、存在すること、感じることを真理とするそうだが、要するに、いわゆる「いま・ここ」において感性的存在として生きる実感を抱く、ってことか。

ふとシェストフの言葉を思い出す。私はシェストフを知らぬが、彼の言葉として、「いま世界が崩壊するとしても、私は一杯の珈琲を堪能したい」って言ったとか言わなかったとか。これって、実存を生理的次元に還元したって解釈できそうだが、ムルソーの人生観も同じだと思う。

よくは知らんが、たぶん実存主義ってのは、「いま・ここ」を充実することによって人生の深い意味を見出すってことかもしれないが、その伝で行けば、シェストフとカミュはその「いま・ここ」的性格を生理的次元に収斂させた、って言えるのかも。知らんけど。

カミュの『異邦人』は不条理文学らしいが、どこが不条理なのか。ムルソーには(亡くなったが)母親がいたし、ムルソーを愛する恋人(あるいは婚約者)がいて、彼を弁護する友人がいて、彼と親しい隣人もいる。彼には職があり、衣食住に困っていない。職場は首都パリにまで進出しようとして、しかもムルソーをパリに出そうとしている。

どこが不条理なのか。不条理なのは、世界ではなくて、主人公ムルソーと身近な人々との関わりなのだ。ムルソーは人々と感情の共有ができない。悲しむべき時に悲しまず、楽しむべきでない時に楽しむ。世間の人々の感情に適応できないでいる。これが不条理性だ。

婚約者がおり、勤める会社は首都に進出しようとしており、しかもムルソーはその支店長か何かに抜擢されようとしている。ムルソーは希望のある世界に暮らす。にもかかわらず、ムルソーは未来に希望を見出しておらず、心の底では絶望しており、しかも自分が絶望しているということに気づいていない。

カミュの『異邦人』、この不条理文学は絶望の文学でもある。しかも絶望というのは、希望の中にあって絶望に沈む、という意味での絶望の文学だ。しかも主人公ムルソーは自らの絶望を少しも悟っていない。それがいっそう絶望感を深めている。そんなふうに思ふ。んで、まだ読み終わっていないけどw

以上、ツイッター上の呟きですた。

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