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星 千家元麿

千家元麿の詩を読んでいきます。

溢れこぼれるやうな星だ
或るところには群れて沢山
或るところには一つ

ふと星空を見上げて心が震え、書き殴ったような作品。千家にはこういった即興の才能があった。そこには子供っぽい発見の心が現れれおり、読み手はその純粋な心情に共鳴してしまう。

ここには人間社会の縮図がある。千家は星空を見ながら、そこに人間を見出したのである。人間社会には、陽気な人々の集う空間もあれば、ただ一人物静かに過ごす空間もある。いまの言葉でいえば、陽キャと陰キャである。詩人からずれば、そのそれぞれが実は美しいのである。

この詩では、短いながらもある種の時間経過が感じられる。まず見た瞬間は、溢れるような星空である。しかし少しじっと見ていると、たくさん集まっている星々もあれば、ただ一つ輝いている星もある。たくさんの集まっているところは見つけやすいが、たった一つだけ輝いているところは、少しは注意していないと見つからないのである。だから、詩人は夜空を見上げて、少しずつ注意力を上げているのであり、それによって孤高の星を見出したのである。

この詩には、詩人の意識とは別に、読み手にある種の寂しさを抱かせるところがある。寂しさとは何か。試みに定義をしてみれば、物が減ることに連れて抱かれる感情である。例えば、髪の毛である。若い頃にはふさふさとしていたものが、中年になるやまばらとなり、老年の域に至れば浪平さんとなる。この髪の毛の変遷をふりかえれば、そこに人の抱く気持ちが寂しさである。減ることは寂しいのである。

さて、この詩であるが、三つの点で減っており、読み進めるにつれて読み手はそれを何となくも感じ取り、それが寂しさを抱く機縁となる。意味であり、文字数であり、画数である。

まず意味については、「溢れこぼれるやうな」といえば、まるで宇宙の隅々にまで星々が広がっているようである。それが次の行となると「群れて沢山」となっており、溢れるほどまでは星の数はないのであり、それが最後には「一つ」となっているので、わずか三行を読み進めるだけでも、星の数がぐうんと減っているのである。次に文字数であるが、これは特に二行目と三行目の文字数を見れば一目瞭然である。文字数が減っているのである。最後に画数であるが、「溢」「群」の二つの漢字は画数が多いのであるが、次の「沢」「山」を読めば、「沢」から「山」へと移るにつれて画数は減り、とどめの漢字が「一」となる。

かくして、この短い詩において、意味・文字数・画数の三つの点において徐々に減っており、それが読み手に詩の表面的な意味とは裏腹に、そこはかとない寂しさを抱かせるのである。

え、今北産業だって? いや三行の詩だし…。

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