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震災や事故のチャート分析について思うこと

「占星術って凄い」と初めて思ったのが、東日本大震災のホロスコープチャートについて、教えて貰ったときだった。

しかしそれは、あの震災から10年以上の月日が経過し、自分の中で、いろんな感情の整理がついていたからではないか、とも思い返す。
もしそれを渦中で聞いていたとしたら、きっとわたしは冷静ではいられなかった。

あまりにも、あまりにも、たくさんの人が亡くなり過ぎた。

浜に流れ着いた200体あまりの遺体が……というニュースを読む声が、今もずっと、心に残り続けている。

わたしも震災時、知らない女性を一人見捨てて逃げてきたことに、ずっと苦しめられてきた。
幼稚園に預けたままの子供が死んだかも知れないと、へたりこんで泣き叫ぶ女性に、逃げようと声をかけても全然動かず(動けず)、
建物倒壊の危険があったため、どうしようもなく、置いてきた。
捨て置いてきた、見捨てたと非難されても仕方ないと思っている。


そんなわたしとは反対に、 看護師の母は救護活動で何日も帰ってこなかった。
連絡も取れず、わたしは当時、母は死んだのかも知れないと思っていた。
その後、生きて再会できたのだが、母が家族よりも患者を選んだことに傷つき、その後も禍根となってしまった。


震災が少し落ち着いてから、「命をかけた防災無線」の美談が世間を涙させた。
迫る津波の中、たった一人、逃げずに町の防災無線で避難を呼びかけた女性の話だ。(残念ながらご本人は、津波に呑まれて亡くなった)

この話は、詰まるような思いと共に、わたしのなかの罪悪感と無力感をえぐり続けた。

わたしは自分の命しか守れなかった。

今思えばそれで十分なのだが、その罪悪感は長い間ずっと、わたしに希死念慮を抱かせる傷痕となってしまった。

今だから言えるが、無力なことは悪ではない。

普段から占いやスピリチュアルに興味関心があると、事故や災害が発生した時に、(好奇心や善意の気持ちから)それらと占い・スピリチュアルを結びつけて、なんらかの因果関係を分析しようと思うのかも知れない。
それは自らの無力さの否定であると思う。


だがそれは本当に、今大変に傷つき、疲れ果て、いろいろな罪悪感や無力感に苦しんでいる人々に寄り添う行為だろうか。

その行動は、愛からのものなのだろうか。

知識はときに人の心を殺す。
もちろん、不安な人に、不安を和らげるためにと求められるなら、必要な場面もあるだろう。
人は未知を恐れる。

知識は剣だ。
使いどころを間違えれば簡単に人を切り裂く。
星を読めても、人に寄り添うことを忘れてしまった術師にはわたしは絶対になりたくない。

だから、あの日のどうしようもない無力さを、わたしはずっと心に抱いたままでいようと思う。

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