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言葉の解像度をあげる、ヒントは「あいだ」にあるもの

「言葉の解像度をあげる」という言い方を知ったのは、コルクラボに入ってからだ。Twitterを見ていても、使っている人が多いから、メジャーな言い回しなのだろうけれど、それにしても、最近よく目にする。

「言いたいことの解像度をもっとあげて、伝えられるようにしなきゃ!」とか、「このテーマの解像度をあげて、noteを書いて」とか。

わたしは、ずっと雑誌の編集をしてきたから、カメラマンさんにはよく言っていた。「表情がいい写真ですが、ドアップで載せるには紙の印刷だと解像度が足りないので、もっと解像度が高い写真、あります?」って、写真選びの度にリクエストしていた。

写真の画素数に使う言葉だと思っていたのに、いつの間にか「言葉」とか「言いたいこと」に使われるようになっていたことに、驚いた。こんなこと書くと、ダサっとか思われるかもしれないけれど。

要するに、「言葉の解像度が低い=言ってることがぼんやりしてる」ってことです。解像度が低い写真を紙に印刷すると、画像がガビガビに歪んでしまい、モザイクがかかったようによく見えないんですね。写真はドットと呼ばれるもので表現されていて、その数が写真に対して多いと「解像度が高い」といい、細部までキレイに表現された画像として印刷されるんですね。(詳しい説明は、こちらのサイトを読むと理解が深まると思います。わかりやすかったです)

スマホで写真を撮る人が増えたから「解像度」という言葉が、一般用語として「言葉」に対して使われても違和感がないんでしょうね。

ちなみに、紙の印刷は360dpiが基準なのですが、300dpiでも一応、印刷はできるんです。その代わり、大きく扱うと「粗」(細部がぼんやりして目が霞んだときみたいな印象)が見えてしまうので、小さくしか扱えません。

写真の例をイメージしながら、「言葉の解像度が低い」状態から密度を高くしていくには、どうすればいいか? 

わたしはずっと、これまで「言葉という単体のもの」が重要なのだと思っていた。例えば、流行り知ってます風の文章にするには、「バズる」「エモい」という言葉をいくつ使えるかが重要だと思っていた。

昔アイドル雑誌を編集していたので、そこではよく「キュン死」「ドキハラ」「胸キュン」というトキメキを伴奏するような言葉をたくさん並べて、それが「刺さる文章のつくり方」だと思っていた。

でも、「解像度」という言葉を知ってから、それは間違いなのではないかと思うようになってきた。なんのワードを使うのか、というのは文章のジャンルや方向性を示せるので、間違っていないのだけれどそれだけでは、編集したとは言えないのではないか? 

日本でもっともエモい文章を書き続けている糸井重里さんの文章を引用して、考えてみた。

 丸の内での「生活のたのしみ展」が幕を閉じた。
 おもしろかったなぁ、うれしかったなぁ。              ちょっとね、大きな劇場のようだったね。
 お客さんの役で舞台にいた人も、たのしそうだった。
 出展者の皆さんも、生き生きとうれしそうだった。
 ぼくら「ほぼ日」の乗組員たちもたのしそうで、
 それに輪をかけてアルバイトのみんながたのしそう。
 そして、地元丸の内ではたらいている人たちが、
 率直に興味を持ってくれたのも、ありがたかった。
 お天気も、快適な環境をプレゼントしてくれた。
 

言葉の選び方に抜群のセンスがあるのは、言うまでもないないので、今さら言及しません。どんな言葉を選ぶか、以上に「言葉と言葉のあいだにあるもの」を、感じさせること。これこそが、「言葉の解像度をあげること」のヒントなのではないか、と最近、思っている。

糸井さんが見ている「生活のたのしみ展」の様子は、単なるレポートではない。事実、もあるけれど、そこにいる人たちの「気持ち」をすくい取るように場所や、人の説明をしている。

こういう文章を書けるようになりたい。真似をしても、ぜんぜん真似にもならない恥ずかしい文章にしかならないけれど、事実の描写だけではない、「あいだにあるもの」を書き表すことに、文章である意味があるんだと思った。うーん、とにかく練習するしかない。

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