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河童と、インドと、私と、母と | 9歳の偏愛

1.恐るべし学級文庫

妹尾河童さんの『河童が覗いたインド』。

小学4年生の時、教室の後ろのランドセル入れの棚の隅にひっそりとあった「学級文庫コーナー」で、この本を見つけて、何気なく手に取った私。

「うわ・・これ、ぜんぶ手書きだ。。。すごい」

見知らぬ国インド。の多様な世界、人々、暮らし、がギュッと精密な手書きの絵と文字に込められている。美しい建築や風景はもちろん、乗り物、宿の間取り、菩提樹、セクシーすぎる遺跡、ガンジス川での沐浴、サリーの着用方法、道端の不思議なビジネス、銀歯の施術ができない人向けに本物の人歯が売られているとか、「象牙で作ったマイクロサイズの象が入っている赤い小さな豆」がお土産とか。

9歳の私には「え、え、え・・・すごい」と強烈な刺激の連続。パラパラとこの本をめくって「これは大変だ・・・」と勝手に独り言ちた。

休み時間も昼休みもそっちのけで、河童のインド・インド・インド・・・。「すごい本みつけたんだけど」をクラスの友達に伝えてみるも、いまいち私が受けている衝撃の大きさは伝えきれなかった。

通っていた小学校では、毎年1つ自分の好きなテーマを決めて、コツコツ調べ学習をしてレポートや作品にまとめていく「豆はかせ」という課題があった。私が次に選んだテーマはもちろん「インド」。

これで、正々堂々とインド調べ放題になる。国旗の絵も意味も、国家の歌詞も意味も、多様な言語も服も食事も、延々とレポートに。それできちんと学校の課題提出になるという。なんと素晴らしい仕組み。

父親の部屋で『10年若返るインドの秘奥義ヨーガ』みたいなタイトルの本を見つけて、勝手に拝借して、色々とポーズを取った。「10年若返っちゃうと、私、0歳どころかマイナス1歳になっちゃうけどいいかな?」と思いながら。あの時は、まだヨガはオシャレ女子のものではなかった。写真のモデルもおじさんだった。

その中でも、蓮のアーサナが、最もインドっぽいのではないかと思い、熱心に練習した。弟も付き合ってくれた。当時は、呼吸法とか瞑想とかは完全に無視で、とにかく、形からインドに入ることを何よりも大切にしていた。

もっとインドに近づきたかった。だけどその頃のインターネットは、学校の教材として取り入れ始められていたものの、各家庭にはまだ普及していなかった。私の住む地方都市はインド人じゃなくて、日系ブラジル人の方たちが多く住んでいるところ。クラスメートにも日系ブラジル人の子が学年に1,2人いたし、ポルトガル語も大好きなんだけど・・でも、なかなか生のインドには触れあえない。

唯一インドっぽい世界に触れる方法は、自宅からローカル線の電車に乗って「街」と呼んでいた隣の大きな市の中心街まで出て「しゃべる」という名前の民芸品屋さんに行くことだった。小学生が気軽に入れる空気は流れていなかったから、勇気がいったけれど、背伸びしてお店に入った。店内に充満するお香の匂いをかぐだけで、大人の階段をのぼっている気がした。

そこで、お香とか、ヒンディー語が書いてあるカレンダーとか、河童本に出てきた「象牙で作ったマイクロサイズの象が入っている赤い小さな豆」などを見つけて購入した。

これね。

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こうして、お小遣いで少しずつインド雑貨を集めては、「しゃべる」に入る経験と勇気を蓄えつつ、インドに近づいているつもりだった私は、ある日、意を徹してインド民謡が聞けるカセットテープを購入した。パッケージに映る歌手はおじさんだった。A面とB面にしっかり曲が入ってた。カセットウォークマンを持っている友達が大人びているように見えていた時代だ。

曲をかけて、音楽が自分の部屋に流れると、インドが近づいてきた気がした。もっとインドに近づきたくて、自分も一緒に歌いたくて、カセットテープを、なんども細切れに一時停止してカタカナで歌詞を書き起こした。

その書き取ったカタカナ歌詞を曲に合わせて何度も何度も歌い、インドに近づくことを目指した。なぜか3つ下の弟も、この活動に巻き込んでしまったが、優しい弟は、この遊びにつきあってくれた。

ちなみに一番熱心に書き取り熱唱していたのは、おじさんが歌っている「ティミータァーーユ、フウウター♪ マエェートーバテーエシュー♪」から始まる曲だった。それがA面の1曲目だったから。とにかくその歌を熱心に書き取った。その曲を書き取って歌えたら、新しい道が開ける気がしていた。

大人になって時々、あの歌のタイトルはなんだったのかなと思いを馳せるけれど、なにぶんこれしか情報がない。

もしももしも・・・通りすがりの方で、奇跡的に、この歌のタイトルをご存じの方がいらしたら教えてもらえたら嬉しい。

2.ヒンディー語への果てなき憧れ

とにもかくにも、そのテープ起こし熱唱で、ヒンディー語への憧れがつのりにつのってしまった私は「英語より先に、ヒンディー語を勉強したい」「ヒンディー語の辞書が欲しい」と連日、母に懇願するようになった。

当時、英語の必修授業は中1から。あと2年以上ある。英語の後にヒンディー語を・・・なんてとても待てない。

ヒンディー語の音も好きだけれど、惹かれるのは文字の形。異国情緒満載。なんで、のれんのように文字が繋がってるのだろう。お洒落すぎる。気になりすぎて仕方がない。

母は、そんな私を否定しなかった。よほど毎日うるさかったのだと思う。

ある日から、母は、私と一緒に自転車にのって、ローカル線の電車5駅分をカバーできるくらいのエリアの全ての本屋さんを回って、放課後、連日ヒンディー語・日本語の辞書を探してくれるのを付き合ってくれた。取り寄せもできませんか、と聞いてくれた。

結果は全滅だった。ヒンディー語を勉強できる本なんて見つからなかった。

今思えば、そんなニッチな需要の本と片田舎で出会えるわけもなく、「ヒンディー語を日本語で勉強できる本は無い」「だから、先に英語を勉強して、英語でヒンディー語を勉強する必要がある」と、本屋さんや母に諭され、とにかく全力で探したけれど見つからなかった、という事実に納得せざるを得ず、ヒンディー語の本探しの旅は名残惜しくも終わりを告げた。

でも、大人になった今でも思い出して嬉しいのは、母が、私のヒンディー語を勉強したいという気持ちに水を差さずに、勉強できる方法がないか、一緒に寄り添ってくれたこと。

知りたい、勉強したい、読みたい、と私が思う、その内容自体に口を出されることが一度もなかった。だから、インドもヒンディー語もおまじないも魔女や妖精のことも、自分が気になるだけ本を読ませてもらった。好きなものを自信をもって偏愛して大丈夫、という安心感を育んでもらったことはありがたい。

3.永遠の憧れのまま-未踏の地インド

その後、インドブームから、SMAPの中居くんブームに入った小6の私は、中居くんにお近づきになりたいという一心で、計画的に歌手を目指した。が、中1の夏に、偶然みたマザーテレサのドキュメンタリー映画に衝撃を受けてしまい「開発途上国のために働く仕事をしたい」に大幅進路変更。

そこからマザーテレサ以上の電撃は起こらず、中1から13年くらいかけて、国際協力を仕事にする機会に恵まれた。以来、パキスタン、ネパール、バングラデシュ、アフガニスタンとは業務でご縁があるものの、偏愛の地インドには未上陸。憧れと好奇心は募り続けている。

4年前にパキスタンに子連れ駐在することになり、インドと地理的に近くなったり、印パキの緊張で二国間の空域に飛行機が飛ばなくなるとか政治的にセンシティブな治安を体感したりするものの、さすがにこのインド編愛歴はパキスタン人の同僚には話せなかった・・・(すこし話そうとしたら、ちょっと空気が変わっちゃったので自粛)ので、こちらにインド愛を書き散らかしている。

インドに行く気持ちだけは準備できている。仕事ではなく、完全に自分の趣味心を満たすだけの旅をしようと。脳内では何度も旅してる。ジャイプールあたりを。

数年前に気になっていて買えないまま絶版になってしまったこちらの本も、中古で購入して何度も眺めている。

なんとなく、家族旅行ではなく、一人で、もしくは気心の知れた友人と、ひっそりと大人の旅をしたい。

4.四半世紀後の発見

別のSNSでブックカバーチャレンジをしていて『河童本』を紹介してしまった日から、ヒンディー語への熱愛をふと思い出してしまった。

あれから四半世紀も経っているこの令和の時代。コロナが猛威を振るうこの時代。もう絶対オンラインで独学できるサイトがあるんじゃないかと思い・・・見つけた。

大阪大学外国語学部によるヒンディー語独習コンテンツ9歳当時、本を探し回った自転車旅を思い出すと、このサイトと出会えたことが嬉しすぎる。感動しかない

一見、すごく独学で頑張れそうなサイトで興奮したものの、第1課のアルファベットのページで既に結構難解。第2課の会話がいきなりハイレベルだったので、これは外国語学部の現役学生さんがメインターゲットなのかもしれない。

それにしても、この大阪大学のサイトだけでアルファベットと発音を結びつけながら覚えるのは大変だったので、だめもとでYouTuberさんを探してみたら素敵な方々がいらした。

なますて*MayoTVさんのヒンディー語文字を学べるチャネル

伝説のYOGA▷▶▷菅ハンナさんの「本気!超初心者ヒンディー語教室」

ありがたい!そして、自宅から、いろんな人からいろんなスキルを勉強させてもらえるって、改めてすごい

9歳の私には想像できなかったけど、信じられない時代になってる!!

以来、ヒンディー語の文字に触れるのは、私の子ども心を満たす「新たな遊び」となった。

ポルトガル語とスペイン語が「どちらか学ぶと、もう片方ももれなくかなり分かっちゃうお得言語」なのと同じくらいか、それ以上のお得感で、インドのヒンディー語とパキスタンのウルドゥ語ももれなく「激烈お得言語コンビ」なので、マイナー言語学習が趣味の方にお勧めしておきたい。

パキスタン人の友人に「ウルドゥー語とヒンディー語は、文字は違うけど、話し方は95%くらい同じだから」と言われたことを思い出し、自分が覚えている片言のウルドゥー語でインド人の同僚に自己紹介したところ

ほんとに通じた。そして驚かれた。驚く同僚の表情をみるのがたまらない。憧れのインドに生まれ育った同僚をパキスタンで覚えた言語で驚かせているという事実に感動する。

以来、職場や自宅近辺でインド人に遭遇するたびに、ウルドゥー語で名乗り「ヒンディー語はなせるの」と驚いて仲良くなってもらう、というのが、ささやかな楽しみである。

5.国境から覗いたインド

ちなみに私がGPS的に最もインドに近づけたのは、このとき。

パキスタン側からのワガー国境。柵の向こうはインド。写真の右奥に集まる群衆の皆さんたちはインド人。

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お互いの愛国心が煽られる熱狂・音楽・リズムになっていることもあり、インドに止まない憧れを密かに持っている私も、この時ばかりはどうしてもパキスタンびいきになってしまう。普段、パキスタンの社会開発に携わっているという職業柄、パキスタンの旗見ると、どうしても応援したくなってしまう。

インドが大国なのはわかってる。インドのレンジャー(赤いトサカのような帽子をかぶっている人たち)は目力が半端ない。湘南ヤンキー(実際見たことありません。あくまで想像)の「お前やんのか、コラァ」を100倍くらい強くした感じと思ってもらえたらいいと思う。そして、観客席の大きさも3倍くらいあって豪華だし、そこに観客が密集してる。

でも、インド様には申し訳ないけど・・・行進するレンジャーたちの背が高くてかっこいいのはパキスタン。黒いトサカと制服も似合う。180㎝以上のレンジャーしか雇わず、さらにかかとの高いブーツを履いて、インドのレンジャーへの威圧を試みている。おそらく、レンジャーの身長くらいしか張り合えないのだろう。観客席を大きくするよりも、なんて経済的な対抗方法なんだろう。とか、よぎりつつ。

それにしても、インド側もパキスタン側も、レンジャーの一挙手一投足が、あまりに息ぴったりで、国旗を降ろすときなんかも、ミリ単位で高さとタイミングを揃えている。それを夕方毎日やっているんだから、やっぱりこう思わざるを得ない・・・「絶対、仲いいでしょ」って。

心から共感したインド側の国境レポートは岡田悠さんのこちらのnoteです。

パキスタンびいきだけれど、娘も「パキスタンのおうちに帰るんだよね」と思い込んでいるけど、インドへの愛を拗らせすぎて、大いに書き散らかしました。

ここまで読んでくださった皆さんに、心からの感謝の気持ちを込めて、「風のナウシカ」の風の谷のモデルとなったフンザの写真をどうぞ。

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Baltit Fortの窓から。