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他力本願で生きる

自分を幸せにしてるつもりになっていた。

「自分でできるもん」と追いやっていたものは、いつでも見ていてくれたんだなぁ。
そんな気分だ。

ここに気づいたとき「自力こそ正義」くらいに
思っていたんだと思った。
自力でがんばることを自分にずっと強いていたのだと思う。

だけど、年末にスーパーで買い物をしていて、あることに気がついた。
他力本願とは、こういうことかと。
メモに書くことすら忘れている、本当に必要なものを、誰かの口を通して思い出させてくれた。
そんな体験が、自力の使い方と他力の違いを教えてくれた。

「私が私が」となって行動しているときには気がつかない、やはり頭が動いてなくて「ぼーっ」としていると周りの人の言葉が飛び込んでくるんだな。

"他力本願"については、辞書や仏教の教えを読めば意味はわかる。
けれど、腑に落ちてはいなかった。
というより、わたしには関係の無いことくらい思っていたのかもしれない。
もはや腑に落とそうなんてしてなかったのだ。

今回の体験を通して、他力のことをわたしなりに感じた。
「自分が心から望んでいることはそのようになる」そんな感じなんだと思った。

自力と他力の違いを調べると、自力は修行とも書かれていて、

自力で自分を幸せにすると頑張ってきたわたしは、望むような幸せは得られていないじゃないか…ある意味修行僧だなとひどくがっかりした。

そして、「全部自分でやってる」「全部自分でできる」と思っていること自体が自分勝手な妄想で、今までどれだけ他力に助けられていたかを思い出した。
(まったくの傲慢だ)

"生きている"とは、自分の考えていることと自分以外すべての働きがあって初めて成り立ち、私の考えること(思考)が及ぼす影響は「巨人と戦うくらい小さなもの」だと絶望した。

私は楽に生きたいと思いつつ、巨人に勇猛果敢にいどみ続けてきたということかと。
高い壁を周りにめぐらせ、そこから出て幸せになるには一体一体殺さないと出られないとでもいうように。
まるでリアル進撃の巨人だ。

そうだとするならば、壁を壊し心願に気づくことだ。
壊すべきは壁の方で、巨人ではないことがよーく分かる。
内側から変わっていくしかない。
そして、今までのやり方が違っていたことに気づき、やり方を変えていくこと。

それが、自分の奥の奥の奥のほーーーーーにいる自分とつながる方法だ。

そして、その奥に埋もれた自分とつながって幸せに生きることを決め、他力と共にあることが"幸せになる方法"なのだ。

今年一年、色んな気づきをわたしにもたらしてくれた"すべての生きとし生けるもの"に感謝します。

"本当は何も信じてなかったわたし"を、わたしの周りにいるたくさんの仲間が信じる方向に向かえるようサポートしてくれたことに、ほんとに感謝だなぁと思う年末です。

来年もどうぞよろしくお願いいたします⟡.·*.。*∅

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