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好きのベクトル

最近、「好き」ということに注目しています。
「私の好きな事」が分からなくなったのはなぜだろう?
「今やっていることが本当に好きなことだろうか?」
このことについて考えるようになって、分かってきたのは、「好き」の根っこにつながることが大事なんだということです。

「私はなぜそれが好きだと思っているのか?」
ここを掘り下げていくことで、「好き」の真ん中にあるものが見えてきました。

私の場合、自分の「好き」をいったん「好き」から外に出して見たことで、これが見えてきたのです。

私は、星を読むことじたいが好きだと思っていました。
確かに、小さい頃から星空を見るのが好きだったこともあり、高校の頃は天文部にも所属していたし、そのとき学んだ星に関する神話も何となく入っていました。
そもそも、星を学び始めたのは、「自分を知る最短ルートなのでは?」という思いがあっての行動でしたが、学んでいるうちに、その学び自体が好きなんだと思い込んでいったようです。

今、歴史のラジオ(歴史を面白く学ぶコテンラジオ)をよく聴くのですが、ここで気づいたのです。
私は、単純に「人間」に興味があるのだなと。

人間の行動パターンや、心の動きがどのような背景により培われたのか?
「どうして人間はこうなのだろう?」という素朴な疑問を解明していくプロセスが好きなんだと気づきました。

歴史を教科書で学んでいたときは、特段興味もなく、なんなら授業を抜け出しファミレスで友達としゃべっていたような学生でした。
先生にバレないよう試行錯誤して抜け出したのを覚えています。
(もう時効ですよね。笑)

そのくらい、私にとってはどうでもいい歴史でしたが、今は人物に注目することで、とても興味深く本で読んだり、テレビで観たり、ラジオを聴いたりしています。
私にとって歴史は、年号でも起こった事柄でもなく、その人物が「なぜそのような行動をとったのか」への興味。
学校で学ぶ歴史が好きではない。
そう思ってきた私でしたが、角度を変えてみると「好き」の中に入っていました。

好きか嫌いかというのは、自分の「好き」の根っこを知ることで、こんなふうにベクトルを変えるのです。
「好き」なものも「嫌い」なものも、そのものへの関わり方によるものだと改めて思います。

話は戻りますが、星を読むということが好きに関してですが、星読みとの関わり方によっては嫌いという判断になることもあるということです。
私は過去に何度となく、「星を読む事が好きではないのかもしれない」と学ぶことを諦め投げ出しそうになったことがあります。
現在はホロスコープを読む人として活動していますが、ホロスコープはやらないという選択をしていたこともあります。

今思えば、私の根っこにある「人間への興味」から遠ざかってしまうと、好きの理由が分からなくなり、「嫌いかも?」と思ってしまう。
元々持っている「好き」の根っこを知るだけで、自分の好き嫌いにも振り回されなくなる。
ひいては、誰かの好き嫌いにも振り回されなくなるのではないでしょうか。

他者目線の好き嫌いに関しては、また改めて文章にしたいと思います。
では、また。

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