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ボクとママと発達障がい〜転校〜

小学2年の3学期から、引越し先の家から近くの通級がある小学校に通うことになりました。幸いなことに、歩いても5分で行けるところで、次女もすぐ学校に馴染み、一緒になって学校に行くことができました。
ヒカルくんっていうお友達もでき、朝は次女と息子、ヒカルくん、ヒカルくんの妹、で学校に行っていました。

なんていうのか・・・兆しが見えた、って思っていたんです。
学校に通える、お友達ができる、息子にとってはこの一瞬がいちばん輝いていたのではないでしょうか?このまま学校に行くことができるのではないか?と私も思っていました。

その頃、たまたま学校に飾っていたポスターで「ヘルプマーク」の存在を知ることになります。立川市の福祉課でもらえるらしく、市役所に行った時にいただくことができました。ランドセルにぶら下げて、それが息子も気に入っていて、ある意味「お守り」みたいに思っていたのかもしれません。

でもそう簡単には行かないのが現実でした。本当に神様はどうしてここまで息子に試練を与えるのだろうって・・・

小学3年に進級し、クラスも特段変わることもなく、そのままでした。
何が引っかかってまた不登校に戻ってしまったかというと、次女が中学に上がったことで、一緒に学校に行く人がいなくなったこと。
そしてその次女も中学でいじめに会い、不登校になってしまったこと。

次女はタレント活動をしていた関係もあり、不登校と言えども撮影や舞台の稽古もうまく入ったりするので、その世界が楽しくて、逆に学校のことなんか忘れてしまっていたくらいでした。
学校に行くと、切れ長の目つきだった次女は、「睨むと怖い。悪魔みたいだ」って言われていたのでした。そりゃ行きたくない、と誰でも思うと思います。

次女がそんなもんだから、煽りをかけるように、息子も不登校まっしぐら。仲良かったはずのヒカルくんにも、新しい友達ができてしまい、息子から関心が離れてしまったこと。
でもホント、たま〜に学校の先生が
「かいせい君、お友達が心配しているから行こう!」
と迎えに来てくれ、そんな時はかろうじて学校に行けていました。
当然ながら、働かなきゃいけない私の策略(学童)は、息子は行くことすらできませんでした。
その時、すでに訳あり夫婦状態になっていたのと、旦那は夜勤ばかりだったので、旦那に頼る訳にも行かず、ひとりまた色々考えるしかありませんでした。

そんなこんなで1年がたち、片手で数えることしか学校に行かない兄弟になってしまっていました。
母は働かなければいけないので、作れる時は朝昼晩のご飯を作っていく、たまに看護師となってひとり暮らしする長女が、面倒見にきたり。どうしようもなければ、必殺の非常食(カップラーメン)となっていました。



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