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青井町役場戸籍係の日常【6】

【登場人物】
私     :主人公。戸籍係歴3年。30歳を目前に控えた女性。
係長    :戸籍係の係長。冷静で頭が切れる。
南野さん  :証明発行窓口担当。ベテラン。
花香 まどか:心の母。田中浩二との婚姻届を出しに来た。
花香 心  :まどかと元夫との間の子。10歳。
田中 浩二 :まどかの再婚相手。
本郷 羽奈 :母親の再婚相手と養子縁組をしに来た。10歳。


「嫌だ!絶対に嫌!!」

戸籍係の窓口で、涙を流す客は稀にいる。
戸籍はその人の人生そのものだ。生まれてから亡くなるまで、さまざまな動きや様相を見せるのが戸籍というものだ。人生ともよべる戸籍を作る、また終わらせるのには、十人十色のドラマがある。
今私の目の前には、届出の紙をグシャグシャに丸めて泣き叫ぶ幼い子供と、オロオロと子供を宥める母親、そしてその後ろで何ともいえない顔で立ち尽くす男性の3人がいる。
この3人が持ってきた用紙は2枚。
1枚は母親と男性の婚姻届。もう1枚は、男性と子供の養子縁組届だった。
私の前には、涙の跡がついた婚姻届と、見るも無惨な姿に丸まった養子縁組届がある。泣きじゃくる子供を囲んで、3人の大人はただ呆然とするしかなかった。

数刻前、どこか浮かない顔をしながら戸籍係の窓口に花香まどかさんと田中浩二さん、そしてまどかさんの娘の3人はやってきた。
まあ、それだけ見ればよくあることだ。
離婚か何かかな?と構えていた私にまどかさんが差し出したのは、婚姻届だった。

「婚姻届ですね、おめでとうございます」

定型の挨拶を口にし、さっそく目を通していると、おずおずとまどかさんはもう1枚の紙を差し出してきた。

「あの……あわせてこちらも……」

その時だった。まどかさんの隣に黙って座っていた娘が、バッと母親の腕をつかんだ。その手に握られている用紙を見るや否やその紙をひったくり、ビリビリと破り始める。

「心!?何してるの、やめなさい!」

母親の静止もむなしく、紙はあっという間に粉々になる。最後にちぎった紙をぐしゃぐしゃと丸めて一つにすると、カウンターに投げつけた。

大きく肩で息をしながらぐしゃぐしゃになったボールを見つめるその瞳からは、みるみる大粒の涙が溢れてくる。

声をあげて泣くその姿に、まどかさんは娘の背をさすりながら視線を合わせた。

「心……どうしても嫌なの?」
「嫌!絶対絶対絶対に嫌!!」

これはこちらが介入できる問題ではなさそうだ。この親子には、もう少し話し合いが必要なのだろう。

「とりあえず、婚姻届の方を審査してきますね。少し時間がかかりますので、待合席でお待ちください」
「はい……すみません」

まどかさんは憔悴した様子で席を立った。
母親に促され、いまだしゃくり上げながら娘も後ろに続く。ぐちゃぐちゃになった養子縁組の用紙は、塊のまま浩二さんが拾い上げ、ポケットにしまった。こちらに会釈をして浩二さんも二人の後に続く。娘の肩に触れようと伸ばされた手は、躊躇い、そのまま触れることなく降ろされてしまった。

婚姻届については、記載漏れなども無く特段の不備が無かったため、そのまま受理できる運びとなった。問題は、養子縁組届ただ一つ。数刻後カウンターに再び3人を呼び戻し、婚姻届が受理された旨を告げる。まどかさんと浩二さんには、養子縁組届について、受理することは不可能ではないことを伝えた。用紙はあんなことになってしまってはいるが、広げて貼り合わせてしまえば審査は出来ないことも無い。特段不備が無ければ、受付できない理由は無いのだ。

二人は顔を見合わせた。数秒の沈黙の後、今回は婚姻届だけ受理してほしいと改めて言った。

「今の名字は、前の旦那の名字なんです」

まどかさんがポツリと口を開く。離婚すると、名字を変えた方には2つの選択肢が与えられる。旧姓に戻るか、今の名字を使い続けるか。
まどかさんは後者を選んだのだろう。

「ちょうど心が小学校に入学した直後だったので、急に名字が変わると色々不都合だろうと思って……」

子供のことを考えて、離婚後も元夫の氏のままを選択する人は多い。子供からしても、妻本人としても、何かと都合が良い事もあるのだろう。

「この人と結婚して、新しい生活を始めるにあたって、彼の名字にすると話し合って決めました。心も、彼のことを気に入ってくれています。だから、あんなに拒否されるなんて、想像もしてませんでした」

ここに来るまでに、何度も話し合い、ぶつかったのだろう。

「自分と同じ名字になってほしいというのは、親のエゴなんでしょうか」

うつむくまどかさんの背を、浩二さんは優しく撫でた。


本日花香まどかさんは、田中浩二さんとの婚姻により、晴れて田中の名字になった。
そのことに起因する手続きに他の課へ周ってもらうため、3人の背を見送った後、今日一大きなため息が口から漏れ出た。泣き止んだあと、娘は最後まで口を開くことはなかった。養子縁組届も受付できると説明した時も、こちらを睨みつけるだけで、何も話そうとはしなかった。きっと、心も身体も疲弊しているのだろう。何ともつらい思いをさせてしまった。もっとほかに言い方や方法があったかもしれないと頭の中で自問自答するが、馬鹿な私の脳みそでは、先ほどのような馬鹿正直な説明しか思い浮かばなかった。

自席に戻ると、

「お疲れ様、なかなか手強かったみたいね」

と係長が苦笑いを浮かべていた。

「母親としては、自分の名字が変われば当然、子供も変えるべきものって考えになりますよね」
「そうだね。ただ、親権者が子供と同じ氏を名乗らなければならないという法律はないし、強制できるものではないんだけどね……」

子供が母親の再婚相手の名字になりたい場合、裁判所に申立てをして母親と再婚相手の戸籍に入籍するか、再婚相手と養子縁組をすることになる。子供の届出は親権者が代諾することができるため、今回のような場合、母親が子供本人の意思を無視して届出を出すことも不可能ではない。それをしなかっただけ、母親も何とか娘の心に寄り添おうとしているのだろう。


再び大きなため息を吐き、気持ちを切り替えようとしていると、窓口に出ていた南野さんが、私の方にパタパタと駆け寄ってくる。

「ねえ!さっきの子供、1人で座ってるんだけど、親御さんとはぐれちゃったのかな?」

連れられて窓口に向かうと、待合席に1人先ほどの女の子が座ってテレビを見ている。先ほどよりは少し落ち着いているようだが、目の周りは可哀そうなくらい真っ赤に腫れている。周囲を確認するが、まどかさんも浩二さんも姿が見えない。市民課とは違うフロアにある課へ行っているはずなので当然と言えば当然なのだが、なぜ彼女だけここにいるのだろう。

「どうする?親御さん呼ぶ?」
「んーと……とりあえず、話聞いてきますよ」

心配そうに見やる南野さんに代わって、彼女に近づく。
真横にしゃがんで視線が合うようにすると、テレビを見ていた赤い目がこちらを向いた。

「こんにちは。お母さんたちは?」
「まだ行くところあるから、暇だろうからここで待ってろって」

なるほど、ここなら市民課の窓口からの目があるし、子供1人でも安全だと踏んだのだろう。
しかし、私たち職員も常に接客中のため、他のお客をくまなく気配りしている余裕はない。
少し心配になって、時計を見る。先ほど窓口を終えたのが30分ほど前。彼女の母親はあと2つの課で手続きする必要があったはずだ。大体1時間弱程手続きに時間がかかるはずなので、あと20分と言ったところか。

「ねえ、退屈なら少しお話ししない?」

ここに彼女を残したままにするのが何となく不安で、そう声をかける。幸い、戸籍窓口には待ち番号の表示はない。窓口のピーク時間は過ぎているので、このぐらい席を外しても問題はないだろう。
彼女は何も言わなかったが、ソファの端に少しずれて、私が座るスペースを開けてくれた。

「どうして名字が変わるの、嫌だったの?」

単刀直入に聞いてみる。
まどかさんの話では、浩二さんとの関係は良好で、二人の再婚にも特に反対はしていないとのことだった。もしかすると、母親にも言えていない理由が何かあるんじゃないだろうか。

「……クラスの男の子にいじわる言われるの」

たっぷり時間を空けて、彼女が絞り出したのは消え入りそうなほどか細い声だった。しかしその内容は、ある程度予想していたとおりのことだった。
10歳と言えば小学4年生。名字が変わる意味も何となく理解できる年頃だ。

「リコンしたんだろ!とか、新しいパパとフリンしてたんだろとか、あることないこと言うの」

そしてこの時期の子供は、自分の言動一つがナイフのような切れ味を持っていることに鈍感だ。一歩間違えば、一生消えない傷を心につけかねない鋭さを持っている。

「それにね……ソイツ、自分がちょっと変わった名前だからって、ふつうの名前の子にイジワル言うの。ババアとかジジイとか……先生に良く怒られてる」

何と単純な理由だろう。日本という国は圧倒的に普遍的な名字の人間が大多数を占めており、その大多数によって支えられている国なのだ。名字が珍しいのが何だ、そんなのたまたま先祖がその名前だったか、その名前の人と結婚しただけでえらくもなんともないのだ。家柄が権威の象徴であった時代も確かに存在はしたが、そんな時代は遠い過去のことで、今は名字や家柄だけでなく、個々人の能力で評価されるべき世になったはずだ。彼女のクラスメイトが馬鹿にする同級生たちは、世間一般ではそんな迫害を受けることはないはずだ。
ただ、周囲からみれば学校という狭い空間でも、この子にとっては一つの大きな世界なのだ。その世界の中で起こる「名字の変化」というイベントは、この子の世界を揺るがしてしまうほど大きな事件なのだ。

まあ、彼女が名字を変えたくない理由は、少なくとも浩二さんを嫌っているからとか、そんな理由ではないのだ。

「花香……心ちゃん」

彼女の名前を口にする。
花が香る、日本に数ある名字の中でも美しい字面だ。
彼女は、産まれたその瞬間から「花香 心」なのだ。これ以外の名前だったことが無い。名前というのは、人間が生まれて最初にもらう贈り物。彼女にとって、一番最初に手にした自分だけの宝物なのだ。

「素敵な名前ね」
「パパがつけたんだって」

百人一首で誰かが詠んだ歌に、彼女の名前のような歌があった気がする。人の心は分からないけれど、花の香りは昔とちっとも変っていない、といった歌だった気がする。きっともう少し大きくなって、古典の授業なんかを受けるようになったら気が付くかもしれない。自分の名前に似ているなって。お父さんはどんな思いでこの名前を付けてくれたんだろうって。彼女が人生で恐らく一生付き合っていく名前なのだから。

「好きなんだね、自分のお名前」
「……うん」

美しい名前、それに負けず劣らず、美しい子だ。
自分の名前に愛着を持ち、大事に、大事にしている。
それはきっと名前という単純なものだけでなく、そこには彼女の母親と、分かれてしまった父親との幸せだった日々の思い出なんかも一緒にあるのだろう。彼女にとって「花香」の名字でなくなることは、自分でなくなること。自分と一緒に過ごしてきた大切な思い出ごと切り離してしまうような、そんな心境なのかもしれない。

「名字はね、生まれてから死ぬまでずっと変わらない人もいれば、何度も変わる人もいるんだよ」
「お姉さんは?」
「私は一回も変わっていないよ」
「そっか……私と一緒だね」

心ちゃんは、少し安心したように微笑んでくれた。

「私の名字も、いつか変わっちゃうの?」
「うん、変わるかもしれない。けど、変えない選択もできるんだよ」

令和の今、妻の氏を選択して婚姻する夫婦も少しずつではあるが増えてきている。この子が大人になるときは、『名字は女が変えるもの』という常識が覆っているかもしれない。

「あなたが自分の名字が好き、大事って言う思いは、これからも大切にしてね」

しばらくして戻ってきた二人に連れられ、心ちゃんは役所を後にした。
前を歩く二人の後ろをついて行きながら、一度こちらを振り返った。
その瞳はまだ少し不安げに揺れていて。でも、私にはこれ以上どうしてあげることもできなくて。ここから先は、彼女が決めるほかないのだ。まだ10歳の少女にこの決断を迫ることは酷だろうが、それしかないのだ。
負けるなよ。その気持ちを込めて手を振った。
彼女も小さく、でもしっかりと手を振り返してくれた。


客足が遠のきだした夕方、再び戸籍係の番号が光った。
カウンターに出ると、デジャヴかのように男女二人に女の子の3人組が窓口にやってきた。
差し出された紙は、婚姻届と男性と女の子の養子縁組届。先ほどと違うのは、どちらの用紙も破られることなく、綺麗な状態という事だ。
テンプレ通りの説明をし、審査を始める。一通り終わったところで受理が完了した旨を知らせ、再びテンプレどおりの説明を始める。

「ご主人と養子縁組することによって、お子様の名字もご主人と同じ名字になります」

そこでちらりと当の本人を見る。先ほどの子と同じ10歳の女の子。
こちらからの視線に気が付いたのか、顔をあげてこちらを真っ直ぐ見据える。その瞳があんまりまっすぐで、こちらが思わず身動ぎしてしまった。

「別に大丈夫」

おや。
先ほどの子と違い、こちらはえらく素直だ。
名字が変わるという一大イベントに、まるで興味がないかのように無表情でこちらを見ている。達観しているというか、本当に興味がこれっぽっちも無いといった顔だ。
その後は特に不備もなく、着々と手続きは進んでいった。その間、これから夫婦になる2人は子供の前だぞとツッコミたくなるようないちゃつきっぷりを見せつけてくれたが、対照的に子供は終始無表情を貫いていた。

うちの窓口であらかたの説明を済ませ、他課への手続きに案内する。先ほどと似たような案件だっただけに、えらく拍子抜けするほどあっさり終わってしまった。3人を見送ってカウンターを後にしようとすると、

「ねえ」

後から幼い声で呼び止められた。
振り返ると、先ほどの少女がカウンター越しにこちらを見ていた。
本郷羽奈ちゃん。先ほどの養子縁組届に書かれていた彼女の名前を思い返す。

「私、今日から山田なの?」
「そうだよ、今日届出をしたから、名字は今日から変わります」

ふーんと何の気なしに呟く彼女の表情からは、何の感情も相変わらず読み取れなかった。
彼女の母は今日、山田さんという男性と婚姻し、山田姓になった。同時に羽奈ちゃんと山田さんの養子縁組届も出され、無事受理されたため、彼女も今日から山田姓になる。

「名前変わるの……嫌だった?」

心ちゃんの泣き顔が頭に浮かぶ。
けれど彼女は何の悲壮感も浮かべず、ただこちらに向き直った。

「別に、簡単になって楽だなって思っただけ」

いち、に、と指を折りながら何かを数えている。

「私、これで名字変わるの3回目。今までで1番簡単な名前だから、今度は長く使えたらいいな」

本郷羽奈から山田羽奈へ。確かに簡単にはなっている。けれど自分の名前が変わってしまうのに、抱く感想がそれだけとは、達観しているのか、あるいは……


あきらめてしまっているのか。


じゃあね。
と、ようやく年相応の笑顔を見せて手を振り、母親を追って走り去った。

齢10歳のあの子は、すでにいくつもの名字を渡り歩いている。対する私は、30を目前にして、生まれてこの方今の氏以外を名乗ったことは一度もない。
自分の今の生き方に悔いはないけれど、彼女の何か諦めたような、それでいて力強い眼差しは、私の心臓を少し締め付けた。
彼女が一度も振り返らず母の元へ駆けて行ったこと、それが何よりの答えなのかもしれない。

同い年の二人の少女。彼女たちがこれから歩んでいく道が、たとえ険しくとも。せめて柔らかな日のさす、暖かなものでありますように。

桜のつぼみにはまだ早い、肌寒い3月半ばのこと。

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