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「困った人」ではなく「困っている人」|#3
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私は『当事者主権』を読んだことをきっかけに、まるで罪をつぐなうように、母の病気に向き合おうと勉強したり面会によく行ったりするようになっていった。
勉強していると、べてるの家という精神疾患があっても地域で生活している人たちの拠点が北海道は浦河にあることを知った。
母との関わり方がよくわからなくなっていたことや精神疾患があっても地域で生活するにはどうしたらいいのかヒントを得たくて、べてるの家に見学に行った。
これらは見学した当時の写真である。ちなみに、訪問したのは2017年の12月だ。
見学前にはオリエンテーションがあった。べてるの家の成り立ちなどについて教えてもらう時間だったのだが、オリエンテーションに先立ちそれぞれ自己紹介をした。
オリエンテーションを担当してくださった二人の彼は、母と同じ統合失調症を患っている。ちなみに、べてるの家では自分で病名を考える。例えば「統合失調症ドラマチックタイプ」など。もちろんお二人にも「自己病名」がある。これは専門家が病名をつけるという一般的な理解とは対照的なものだが、当事者自身が「私のことは私が決める」ことに意味がある。
私は母の病気が理由で見学に来たことを伝えたのだが、オリエンテーションを担当された彼らから「お母様が病気ということで、あなたの苦労は何ですか」と尋ねられた。
初めて会った人に苦労を聞かれるなんて思っていなかったので少し驚いた。ここでもトラウマ的な出来事がフラッシュバックしたのをよく覚えている。
苦労を話そうかどうしようかと思ったが、幼稚園のときにいつも遊んでいた友達から突然「マヨちゃんとは遊んではいけないよってお母さんから言われた」と言われたことについて話した。(前々回の#1に書いた内容である。)
このことを人に話したのは、たぶん初めてのことだった。話せたことに安堵していたのか、何と応答されたかは思い出せない。
そのあとオリエンテーションが始まったのだが、私はいろいろと思い返していたら泣いてしまった。オリエンテーションが終わり担当の彼らから「感極まられているようですけど、よかったら感想を…」と言われた。
私は泣きながら「苦労を話せてよかった」と伝えた。すると、担当の彼らが「話せてよかったですね」と言い、拍手してくれた。苦労を話してよかったと言われ、拍手されるなんて思ってもみなかった。
彼らと私では、当事者性が異なる。しかし、困難を抱えたり悩んだりする、苦労する、そうした点では同じ当事者だ。
私は、彼らが私の苦労を聞き出し、その苦労を受け止め、拍手してくれたことが、とてもうれしかった。彼らは、私を受け入れて苦労をともにしようとしてくれた気がしている。
べてるの家には、誰しもが持っている生きにくさを仲間とともに共有し、研究というアプローチから深めていく当事者研究があるのだが、彼らが私の苦労をともにしようとしてくれたことを通じて、当事者研究にふれたような気がした。
苦労をともにするというのは、シンプルなようでなかなかできないことではないだろうか。母が入院した経緯や長期入院を思い返すと、そう思う。弱さを開きそれが受け止められる場の必要性について考えさせられた機会だった。
見学させてもらったことでほかにも多くの学びがあったが、特に参考になったことがある。
それは、問題を外在化するということだ。人と、その人が抱える問題を分けて捉える考え方だ。このことは、現地だけでなく事前に読んだ文献から学んだことでもある。
私はそれまで人と問題が一緒になってしまっていて、母のことを「困った人」だと思っていた。そこで、人と問題を分けると母が「困っている人」となるのだ。すると、母の調子がよくないのは何か問題を抱えているからなのかと理解できるようになった。母との関わり方がわからなくなっていた私にとってありがたい考え方だった。
母は別に「困った人」ではない、社会との関係性のなかで問題を抱えているのだ。
社会との関係性のなかで問題を抱えるというのは、私にだってあることだし、誰しもに経験があるのではないだろうか。
家族や友人、職場や地域の人たちとの人間関係、従来の慣習や規範、生きづらさを覚える社会の枠組みなどから、悩みを抱えるということはとても身近なことだと思う。
問題を外在化するという視点をもちながら面会に行って母と話すことを試みた。
すると、これまで母の言っていることがわからないときもあったのだが面会を重ねるにつれて段々とわかるようになっていったのだ。
少しずつ起こっていった変化なので、具体的なことをまとめて書けないのだが、母との関わり方がわからなくなっていた私は、母と久しぶりに気持ちや言葉を交わしたような気がしてとてもうれしかった。
私は、母の言動の背景に思いを馳せず「困った人」だとか思って、関わり方がわからなくなっていた。長らく母と話ができない苦しさを感じていたし、それは母も思っていたかもしれない。
ここまでくるのにとても時間がかかってしまったが、母と話せるようになったことはとてもうれしかった。
関わり方がわからなくなっていたのは、私が母を理解しようとする姿勢をもてていなかったからだった。正確にいうと、その姿勢をもてなかったのは、子どもの頃に精神疾患の知識を得ることなく生身で母とぶつかるなかで様々な傷つきを負い、関わることがトラウマになっていたからだと思う。
トラウマがあるなかで、私の捉え方次第だったことに気づいたときはとても大きな衝撃だった。長らくそれに気づけずすれ違い続けてきたことに後悔を抱いたが、いまでは大切な視点をもてて本当によかったと思っている。
私がここでわからないのが、私が母との関わり方がわからなくなった話は、私に限った話なのだろうかということだ。
母と暮らしていた頃、母は周囲との摩擦のなかで地域で生活していくことが困難になっていった。このときに、周囲からの理解があれば状況は変わったのではないかということを考えさせられている。
障害は個人のうちにあるものではなく、障害は社会の側にある、ということを自分自身の変化を通じて感じている。
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