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【ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー】

トカゲとかヤモリとか、あの形の生き物が結構好きだ。

小さいころに遊びに行った国際交流のイベントで、どこかの国のブースで売っていたヤモリの形をしたマスコットを買ってもらったほどだ。蛍光の黄色、オレンジ、黄緑などがマーブルになっている、目がちかちかする色使いだ。でもそれをいたく気に入って、買ってもらった当初から、部屋の棚の一番高いところにおいて、私の部屋を守ってもらっている気になっていた。それから20年近く経つが、そのカラフルなヤモリはまだ私の部屋にいる。

先日、外の雨がひどいので、様子が気になってベランダに出て様子を見ようと窓を開けた。足元を見ると、ベランダに出しているサンダルが雨で水びたしになっている。外に出るのをあきらめて網戸を閉めた瞬間、右下で「ベチッ」という音がした。何かと思って下を見ると、ものすごい勢いで走り去っていくヤモリが目に入った。どこか上のほうから落ちてきたのだ。追手はいないのに、必死で逃げていく姿に笑ってしまった。しばらく猛ダッシュで逃げたあと、壁際で止まった。止まった様子を部屋の中で見ていたら、今度は壁沿いに動き出して、隣の部屋との境目にある排水溝の中にすっと入っていった。

この地域では、ヤモリを「かべちょろ」と呼ぶ。かべをちょろちょろと動くからだそうだ。安易だ。
さっきのヤモリは、ちょろちょろというより、じたばた動いているように見えた。手足を前後に動かすというより、ぐるぐる回しながら、おなかあたりを引きずって動いているような感じ。「かべじた」?やっぱり「かべちょろ」でいい。

渋谷と横浜の間で生まれ育った私が、九州の山に囲まれた地域に移住してきて4年目。たくさんの方言や文化に出会ってきた。今まで普通だと思ってきたことが、全然普通じゃなかったり、「都会育ちはやっぱり違うのね~」と言われたりしてきた。それだけならまあ許せるというか、まあいいかと思う。
もともと2年間だけ過ごす予定だったのもを、3年、4年と延長するうちに、「あなたもここの女になるのね」という言い方をされるようになってくる。もしくは「こっちに骨をうずめるのね」と。胸がざわざわする。

それは、仲間になるということなのだろうか。言っている側は何とも思っていないかもしれない。でも、言われるこちらとしては、正直、居心地が悪いと感じてしまう。歓迎されているのに?言われるたびに考えてきた。どこに違和感を覚えるのか、なぜ居心地の悪い気分になるのか。

私は、自分が育ってきた地元が大好きだ。ずっとそこで暮らしていくと思っていた。でも自分の選択でこんな遠くまで来た。それ自体を後悔していることはない。この場所で楽しく過ごしている。だけど、それはあくまでもここ数年間だけの私であって、20年以上地元で過ごしてきたのだ。この先をこの場所で過ごすのだとしても、地元で育ってきた私の、年輪的な、奥の、核の部分は変わらない。「ここの女」「骨をうずめる」という表現をされるとき、どうしても、私の奥の、核の部分までも染められてしまうような気持ちになるのだ。
私は、「半分関東の、半分九州の人間」が精いっぱいだと思う。もしかすると、これから「半分関東の、半分の半分九州の、半分の半分北陸の人間」とかいうことが今後あるのかもしれないけど、その可能性は極めて低い。到底「ここの女」にはなれない(「ここの”女”」という表現も引っかかるが、それはまた別のお話)。

いや、たぶん、相手もそこまで言っているわけではないんだけれど、つい、「そこまで染まってないの!!!」と言いたくなってしまう。

とはいえ、もう、県内の地区ごとに微妙に違う方言のニュアンスがわかるようになってしまった。こっちにいるときはそれなりの方言を使いながら、地元に帰ったらばっちり標準語で話すこともできる。ハーフ&ハーフの現在地。


書評エッセイ

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

(2が出ている。早く読みたい。)


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