【明るい夜に出かけて】

しゃべりが得意な人がうらやましい。

プレゼンテーションが上手な先輩、ファシリテーションに長けた後輩、飲み会の場をまわすのがうまい同期、周りにたくさんいて、みんなうらやましい。
大学時代に入っていたお笑い研究会なんて、すごいなーと思う人たちばかりだった。

大学でお笑い研究会に入ったのは、サークル紹介の場のMCが強烈だったからだ。次のサークルを呼び込む「どうぞ!!」という声が、テレビで聞くトーンと一緒だったから感動した。「あれって普通の人でもできるんだ」と思った。笑研に入ったら彼らは全然「普通の人」じゃなくてものすごい先輩たちだということがすぐにわかったけど、同じ大学の同じサークルに所属できているというのが単純にうれしかった。

先輩たちはライブでネタを披露するだけじゃなくて、ラジオを撮ったり大喜利をしたりしていた。そういうときの先輩たちの話はいつもおもしろかった。大喜利のお題が出るまでの間のちょっとの時間とかが楽しかった。

そういう人たちって、みんな「自分の言葉」でしゃべっているように聞こえる。台本を読んでいるわけじゃない。誰かを真似してるわけでもない。マニュアルに沿ってるわけでない感じがする。なんであんな風に上手にできるんだろう、と不思議に思う。

ここ数日のclubhouseの流行りに乗って、いろんな話を聞いたり少ししゃべったりしたけど、私は全然だめだった。全然ついていけない。聞く分にはいいけれど、話すとなるとかなり難しい。
その場(ってどこなんだろう)にいる人たちの表情が見えなくて、何が何だかよくわからない。いや、内容自体はわかるけど、発話するタイミングとか次の話題の方向とか話の広げ方とかわからないことが多すぎて、結局黙ってしまう。
子どもの前で話す仕事をするようになって3年経つけど、そういうのとは全然種類が違う。仕事は成り立っているけれど、しゃべりは全然上達しない。

そして、何がしたくなったかというと、文章が書きたくなったのだ。
私の中の言葉は、音声であるというよりも、文字であり文章である。
いろんな人がしゃべっているみたいに、私は書けばいいじゃないか。

コロナ禍の最中、Facebookで「ブックカバーチャレンジ」が流行した。
あのとき私は、前職の同期から「バトン」を受けて、7日間お気に入りの本を紹介していた。本の中身はあまり紹介せず、本の表紙を投稿していくというのが「ブックカバーチャレンジ」の趣旨だったようだけれども、私はそれを完全に無視して振り切った書評のようなエッセイを書いていた。その本を読んで自分の経験と繋がった部分を綴っていたつもりだ。それを書くのがものすごく楽しくて、いつかまた書こうと思っていた。
その「いつか」が、clubhouseの波に押されて、今ごろやってきた。

特化した趣味や、絶対発信したいという主張のようなものはないし、コンテンツに詳しいわけでもなければ、人脈を爆裂に広げたいとかいう意欲もない。でも、一人の世界に閉じこもって物書きをしたいかと言われるとそうでもない。
「あわよくば読んでもらいたい」という気持ちとともに、ポツポツと書いていきたい。

書評エッセイ

『明るい夜に出かけて』佐藤多佳子


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