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【居るのはつらいよ】

コスパに振り回されていると思う。

「□□で買えるコスパ最強グッズ」「絶対買いの○○」「神コスパの△△」「鬼高見えコーデ」「エモ商品」などという言葉が出てきて面食らう。エモ商品って本当に何?エモいって感覚はわかるけど、その感覚に、「エモい」っていう新設された形容詞は、あまりにも合わない。それほどまでに、感覚に名前を付けるのは大事なことなのか?私がわからないだけ?

エモいの話は関係ない。コスパの話だ。お高めのお店の商品に似ているけれど低価格で買えるものとか、高いブランドで買ったように見えるけれど意外と安いものなどが身の回りにあふれている。試しにインスタで検索してみたら「#高見えコーデ」で17.7万件、「#コスパ最高」で33.8万件もあった。純粋にすごい。

実際自分が買い物するとき、ネットで見て、お店で見て、どっちが安いかななんて考えてしまう。店舗で見つからないものは、ネットで探すし、その中でも安く買える場所がないかな~と探してしまう。値段が安いぞ、と思ったら送料がすごく高かったりする。送料を無料にするために、他の余計なものまで買わないといけないという思いに駆られて、ちょうどいいものがないかとショップの商品をひたすらスクロールしてしまう。高コスパ探しにのめりこんでしまう。
そして、やりすぎた、と気付いたときに思う。「コスパ」とは「コストパフォーマンス」じゃないか、と。費用対効果であり、費用だけの話ではないぞ、と。

「コスト」と「パフォーマンス」のそれぞれに何が含まれるのか考える。経済学的にではなくて、体感の話。
コストは、単純に品物やサービスにかかる料金。パフォーマンスは、その品物やサービスが私にくれる価値。そのモノを得るための時間や手間も、コストかもしれない。「安く買える場所を探す」という手間や時間がコストになるような気がしてくる。すると、コスパがいいものを探そうとして、パフォーマンスは変わらないものに対し、コストが増しているような気がしてくる。私がたまにのめりこんでしまう「高コスパ探し」は、ただ単に、「値段が安いもの」を、時間や手間というコストをかけて手に入れるということなのではないか。だとしたら、費用対効果の費用のほうを、自分の労力をかける形で、効果に移しているだけなのではないか。50:50を自力で45:55とか39:61とかにして、結果的にコスパがあがったように感じているだけ。結局、トータル100。繰り返しになるが、あくまでも体感の話。

それなのに、意味のないコスパ意識がなかなか薄まらない。何に対してもコスパを考えてしまう。ネットショップ程度ならまだいい。深刻なのは、自分に対してその意識が向いてしまうことだ。転職して田舎に来たので、何度も何度も何度も何度も「よくこんなところに来たね」というニュアンスのことを言われている。もっと直接的に言われることもある。そう言われるたびに考えてしまう。自分はこれまでのコストに見合うパフォーマンスを出せているんだろうか。

例えば両親が出してくれた学費、恵まれた環境で私が学んできた知識や、それにかかった時間、たくさんの人と(たぶん)築いてきた人間関係、なんかそういう今までのことと、今ここで、出力されている自分が、見合わないように思えてならない。今までの諸々が高かったのではなくて、今の出力が弱すぎると思ってしまうのだ。今現在のことではなくて、大学を卒業してからずっとだ。自分の能力や、もらっている給料や、充実感。そういう類のものが、見合っていない。ずっと、高コスト低パフォーマンスだ。「#コスパ最悪」、100件以上。

ここまで書いて、自分が自分に厳しすぎて苦しくなっている。
コスパは結果として「よくなる」ということもあるんじゃないだろうか。例えばモノなら、ちょっと高かったけどいいもの買ったなというハッピーな気持ちが湧いてくれば、それは想定よりもいいパフォーマンスを発揮しているじゃないか。それはわかる。ものやサービスなら理解できる。
でも自分についてのことは、心から納得することができない。「がんばっていない自分には価値がない」という発想は間違っていると、人から教えてもらったばかりだ。そんなこと頭でわかっても心ではわかりきれない。がんばっていない自分、出力の悪い自分、ただ居るだけの自分も、それまでの自分に見合っていると思えるようになりたい。今、これを書き起こすことが(そして公開しちゃうことが)、そのための足がかりになると思っている。

インターホンが鳴り、頼んでいた荷物が届く。
これ、送料かかったっけなあ。


書評エッセイ

東畑開人『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書(シリーズケ ケアをひらく)』





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