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境界線

英語でboundaryという、この言葉は心理的な意味も含む。自己と他人の境界線の話だ。

人間関係の矛盾

人は依存と自由を同時に求心している。これは最近読んだ本の受け売りだが、すごく納得のいく提案だった。依存とは、人を縛りたい欲求と縛られたい欲求の二本柱らしい。これだけでも大きく矛盾している。私たちは電話一本で駆けつけてくれる人も欲しいし、「自分が力にならなければならない」人も同時に欲しい。相手の行動も制御したいし、自分の行動も制御されたいのだ。一方で、そんな縛られた関係から自由になって空を飛んでいたいとも思っている。依存の欲求だけでも矛盾しているのに、依存と自由を同時に求める私たちは、矛盾に矛盾を重ねている。自分の生活を依存に傾けて、人に呼び出せれたら駆けつけ、人を呼び出したら駆けつけられ、という生活をすると自由が枯渇していく。そうすると相手に依存しているにも関わらず、どこかに飛んで消えてしまいと思ったりする。依存と自由とは根本的に相互排他的であるからだ。どちらもをまるっと共存させることはできない。これはきっと実存主義的な不条理であり、理想と現実は合致しない、ということにも繋がる。(いきなり哲学用語をぶっこんで申し訳ない)こうした矛盾と複雑性と適応するということは、それを受け入れて拮抗する欲望達に自分なりのバランスの最適解を見つける必要がある。物事は全てバランスだと思う。

境界線

そんな矛盾を受け入れるために境界線は存在するのではないかと思う。自分という丸い球体の中心部から〇〇%、と範囲を決めて、ここから先は他人に依存、ここから先は他人を拒否する、と決めるのである。上手くいくカップルとかもこういった原理で動いているのではないだろうか。相手を縛るのはここまで、週に一回は自分の時間を作る、等と明確なコミュニケーションで定めている。

あまり関係のない話かもしれないが、私は自己開示は依存に繋がると思っている。他人に関する限定的な情報、つまり「私だけが知っている何か」が優越感と共に義務感をもたらす。私だけが助けられる、というおかしな優越感と私にしか助けられない、という縛りが同時に発生するからだ。秘密を通して絆という名の依存を造る。そんなことで義務は発生しない、という人は精神的に自立しているのだろう。どうやら自分が思っている以上に依存に依存しているらしい。

自由と縛り・個と社会

個人が自由であるということは、言い方を変えれば社会に対して自分勝手ということである。自分に対して極端に正直で、社会に対して無頓着な人は協調性がないと言われたりする。裏を返せば、社会的に正しすぎるということは、自分がないということだ。社会に合わせすぎて自己を喪失している。社会と個は対の存在だ。創られた経緯が違うので、当然と言える。社会には役割がある。人が集団として、種族として生存していくという役割がある。社会はこの役割を、集団として外敵から自らを守り、インフラを整備し、人生のアドバイスを縦に流すことで果たしている。社会に置いて個は職業、性別、年齢的な役割が与えられる。しかし、人間の個体のみに焦点を当てると、なんの目的も役割もない。人一人が息をし、家族と食卓を囲み、社会について学び、趣味を極め、いずれ死んでいくことに生得の意味はない。ただ偶発的に、森に木が生えているように、自然と発生しただけだ。「頼んで生まれたわけではない」と反抗期によく言ったものだが、それは真実だと思う。気付いたら生まれていて、気付いたら存在していた。親には親の意図があったのかもしれないが、そんなの胎児には知るよしもないし、同意もしていない。つまり、生まれてきた胎児の視点からみれば、本当に偶発的に、ビッグバンが突然起こったように、気付いたら存在していたのである。社会と個は根本的に違う。社会では、問題に対して答えが用意できる(最適解かどうかは置いておいて)。地球温暖化があれば、それを防ぐ手段を理論立てて考えることができる。目的がはっきりとしているからだ。種族の存続を目的とするのだから、人間が生きやすい環境でなければならない、という目的から派生する回答がある。個にはそれがないのが悩ましい。つまり、私たちはいつも集団のために創られたルールなり、べき論と意図のない自分の間を彷徨っている。どちらが欠けてもいけない。個があって社会は成立し、社会を作って人間の個体は生存してきた。われわれも共依存しているのかもしれない。

どこに線を引くのが最適なのだろう。社会と私のあいだ、私とあなたの間。


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