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経由地:イスタンブール

真っ白なキャンパスが空っぽなのと同じように、真っ黒なキャンパスも同じくらい空っぽなのです。イスタンブールのバスは、フェリーは、街中は、雑音で溢れ、混ざった絵の具が脳のキャンパスに色を散らします。色が混ざり過ぎて黒になった筆で何本か線を書いてみても、絵の具の散ったパレットは混沌としていますから何を書いているのか全く読み取れないのです。何も読み取れないのは、何も書いてないのと同じ。空っぽです。

雑音に後ろから髪を引っ張られながら乗り込んだ空港行きのバス。日本に戻った自分を思い浮かべると、少し心が落ち着く気がします。目を塞いでいた色達が引いていく波のように濃度を減らして、目の玉の前に横たわっている景色が解像度を上げていくようです。

人間、心と身体が合致しないことが気づかないうちにたくさんあるようです。心は社会に出る準備ができているのに大学生のフリをして、つまらないなと思いながらバイトや飲み会に明け暮れたり、偶発的で運命的に決まった人種や性別とやらの社会的殻に閉じ込められながらも本当の自分を探してあがいたり。ドイツにいて心の呼吸ができないのはもしかして、身体という殻を否定することでしか自分が成り立たない気がしてしまうからなのかも知れません。白人社会でアジア人であるということに、植民地化された心が拒否反応を示してしまっているのかもしれません。宗教も髪色も肌色も混ざり合ったイスタンブール市街を歩いているとそんな気がしてきます。イスタンブールにおいてもアジア人は珍しいみたいで、行くとこどこで人々は友人に「彼女何人?」と聞いていました。ものめずらしいのでしょう。

社会風紀や偏見、影響に本当のことなどないと常々思います。善悪や優劣は信仰する社会の副産物であって、私たちが共有するフィクションでもあります。つまり彼らは、ただそこにあるだけなのです。英雄が正しい、犯罪者は悪い、少数派が間違っている、金持ちが優れている:これらは全て時を通して創られた社会の遺産であり、それ以上でも以下でもありません。だから例えば私が体の色、質や形を否定することでしか自分を認められない気がしてしまうのも、そういった社会の影響なのです。

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そんな雑音がさら収まる空港は、陽が差して、さながらユートピアみたいです。ドーハ行きのゲートには観光客や裕福そうなアラブ系旅客が溢れており、オイルマネーの掘れば出てくるお金の豊富感と上位感にびっくりします。世界は不平等さは永久的です。栄養価の高い土地もあれば低い土地もあり、雨が恵みをもたらしたり、地盤が緩くなったり、逆に干上がったり。そうと思えば土地の貧しい民が遠征し、豊かな民を搾取し植民地化したり。対力関係を物理から政治へ、金融へと昇華してシステムを再構築したり。豊かなものが栄え、腐り、食い食われ、不平等も土台が変わるごとに循環するのかもしれません。不平等なもの全てがお互いに対立し、総体としてバランスをとっているのでしょうか。もしかしてこれを人々は公平と呼ぶのかもしれません。

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P.S. 人の話ばかりだったので少しだけ国の話。豊かな海と土地、豊富は食料、そこに芽生えた受胎的オットーマン国家。豊かさの上に平和と余裕は立つのでしょう。イスタンブールは、穏やかな鬱蒼とした恵みと、人間らしい文明を感じる都市でした。

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