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第7回・意思疎通という武器

意思疎通なんてライターとはそんなに関係ないことを急にどうして、と思われるかもしれないが、おおいに関係がある、ということを今回は扱いたい。
唐突な話題のように見えるかもしれないが、実は前回の記事へのレスポンスがきっかけだ。

幸いなことに、前回の校正校閲にかんする記事に対して個人的にコメントをいただいた。というより、そういう場を設けていただいた。
勝手だが、非ライター業のAさん、ライター業務経歴のあるBさんとしよう。
その場でのコメントは、以下のようなものであった。

Aさん「なるほど、ライターさんっていうのはそういうところに気をつけなきゃいけないんですね」
Bさん「たしかにそれはありますけど、意思疎通と同じところもありますよ。要は自分の言いたいことをちゃんと伝えられているかってことだと思います。これは、書く側も読む側も一緒じゃないかな、と」
Aさん「たしかに、そういう基本的なところは大切ですね。話しことばでも、書きことばと似ているところはあるんですね」

意思疎通というのは人類の営みの基本だ。
このnoteを始めてすぐに書いたことだが、文字文化というのはせいぜい2000年くらいの歴史しかなく、人類の歴史はもっと長い。文字でなにかを伝えるよりもずっと前から、人類は意思疎通をはかり、生きてきた。そうでなければ、古の集落や数々の遺物はなかったであろう。
共存するために意思疎通をしてきたのが、人類だ。
などというと大袈裟なような気もするが、実際、意思疎通できずして文章は書けない。

前回の記事で、コピーライター時代に互いの広告を校正校閲するという話を書いたが、それは前提条件として「読み手との意思疎通ができている」からだった。
広告を見るひとびとと意思疎通することができないなら、無駄な出稿費でしかない。そして、広告を見るひとびとと意思疎通するためには、普段きちんと意思疎通できているかが鍵になると言っていい。
社会生活を営むにおいて、最低限のやりとりはどこにでもある。それでも、だれもが正確に意見を誤解なく伝え、相手の考えを歪みなく受けとめることはできるかといえば、そうではない。もちろん、私も誤解を生んでしまうことはある(謝ったことなど数えきれないほどある)。ただ、普段からこういったことに気をつけておくかどうかということは、ライター業の成果物に影響を与えるのだ。

「書く」という状況において、普段から意思疎通ができているか、そのことを意識しているか、ということはとても重要だ。
ひとりよがりな文章にならないためにも、読者を置いていかないためにも、自分の意図を伝えるためにも。
普段から意思疎通ができているならば、書きことばも自然とそうなる。逆もまたしかり。
自分の言いたいことだけを書きたいならば、それこそnoteであったりブログであったり、そういったところに書き散らせばいい。言うまでもなく、それでは商売にならないが。
(余談だが、ブログでたまに見かけるアフィリエイターは、かなり魅力的な文章を書いていると思う。彼ら彼女らは、訪問者との意思疎通に長けている。そうでなけば訪問者は離れていくばかりだからだ。)

私がこのnoteで繰り返していることだが、「書く」ことはなにも特別なことではない。
では、なぜ「ライター」などという食い扶持があるのか。
それはおそらく「ヒトが書く」というところに意味があるのだろうと思う。
クライアント側も、ライター側も、きちんと人間としても文章としても意思疎通ができて、互いの満足を得ることができる。これはとてもしあわせなことであり、経験しがたいものであり、貴重な瞬間だ。
ひとりよがりになっていては、そういった経験は得られない。
ただ文字を書くだけの仕事だと思われがちだけれども、意思疎通の技術は間違いなく必要で、それはある程度、高いレベルで求められる。それがライターというものだ。

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