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こおるかも流・読書の技法

こんにちは、こおるかもです。イギリスで宇宙開発エンジニアをやっています。

ぼくは読書がわりに好きです。というか、病的に好きです。

読書にハマったのは比較的遅く、20歳(大学2年生)の頃からですが、そこから渡英するまでの約10年間、毎日3時間以上の読書をほとんど欠かしませんでした。

蔵書の量でいうと、数えたことはありませんが、イケアのフルサイズのブックシェルフ3台に、目一杯仕切り板を入れたうえで、さらに奥行きが許す限り手前と奥で2列にしてなんとか収まっていたような感じでした。渡英の際に泣く泣く半分くらい手放しましたが。

イメージ:みんな大好きIKEAのビリー本棚シリーズ(¥9,990~)

今日は、そんな読書に明け暮れた10年間、友達のいない読書ライフで身につけたぼくの読書の技法を紹介したいと思います。

  • 本を読むのは好きだけど、長続きしない。

  • 一度読んでも、内容を忘れてしまうので意味がないと感じてしまう。

  • 一般教養を身に着けたいけれど、どんな本を読んだらいいかわからない。

そんなかたの参考になれば幸いです。

技法その1:テーマを決めよう

読書をしたいと考えているなら、何かしら知りたいこと、学びたいことがあるはずなので、まずはそれを自分の中で明確に、必要なら文章に起こして、それを意識して本屋さんへ繰り出しましょう。

大きい本屋さん(ぼくが好きなのは東京駅オアゾの丸善、あぁ懐かしい)に行けば、たくさんの本がテーマ別に並べてあります。

オススメなのは、目に留まった本を片っ端からパラパラめくって、テーマに沿ったキーワードを抽出して、自分の知りたかったことのイメージをより具体的に膨らませていくことです。こういうことができるのが、実店舗の強みかと思っているので、僕は本はAmazonではなく本屋さんで買います。

そして、あとはフィーリングで、何冊か買ってみましょう。1冊を読んで満足すると、むしろかえって偏った知識が身についてしまう可能性もあります。できるだけフェアに、公平な知識を身につけることを意識しましょう。

読書の良いところは、たとえどんなに偉い作家の作品であれ、読者が好きなように読み比べても良いところにあります。

一例として、「世界史」というテーマで自分が読み漁った本は、出口治明さん、佐藤優さん、ユヴァル・ノア・ハラリさんらの著作です。足繁く本屋さんに通う方は、絶対目にしたことのある作家さんだと思います。

出口さんは徹底して歴史的な出来事を経済的動機や特権階級の利己的な動機によって説明しようとする傾向があります。佐藤さん、ハラリさんの著作と比べると、宗教や哲学の役割を軽視しているように思います。近代以降、そうした宗教や哲学の役割は遠のき、科学技術によって人類は際限なく進歩できるという進歩史観・ヒューマニズムが垣間見えます。

一方の佐藤さんは、何事も宗教的動機に重きをおいて説明しがちです。果たして当時の宗教家がそこまで教義や経典解釈を持ち得ていたか、時々疑問に思います。また、現代の紛争問題なども、深いところにある宗教的対立に焦点を当てていますが、ぼくは存外、経済的なモチベーションの方が勝っていることが多いように思います。

ハラリさんは、よりプラクティカルに、宗教や哲学思想の実体は所詮虚構ですよと前置きしつつ、それらが果たしてきた役割を強調します。そして今も形を変えて(主にヒューマニズムとして)働いているというふうに見ています。したがって、出口さんのような立場の人も、ある種の宗教的な虚構に取り憑かれているとして批判の対象としています。

こんな具合に、いろいろな本を読み比べることで、自分なりの考察がぐっと深まります。決してどれが正しいと断じるのではなく、多角的なものの見方ができるようになることが重要だと思います。

技法その2:繰り返し読もう

僕自身、読書スタイルの確立にはとても苦労しました。結局、読んでも忘れちゃうんだから意味ないじゃん!と、さじを投げていた時期もありました。

それでも読書を続けていく中で、行き着いたのは、「3回読む」です。

といっても、毎回つぶさに読むということはしません。

ぼくがやっている方法は、

1周目:蛍光ペンでライン引き
2周目:蛍光ペンの箇所だけ読む
3周目:読書ノートを作る

という方法です。

1周目は割りと普通に、頭から終わりまで読みます。ぼくは基本的に、速読はしません。基本は精読です。それでも、読書量が増えてくると、精読がそれなりに早くなります。ビジネス新書であれば1時間あれば読めます。

その際、文章のおよそ10分の1くらいの分量に、蛍光ペンで線を引きます。これはかなり特殊な方法だと思いますが、とても効果のある方法だと思っています。

線を引く目安は、「2回めに読むときに、ラインを引いたところだけ読んでも論理の骨格がつかめるようにする」ということです。これがめちゃくちゃ重要です。これを意識すると、そもそも1回目の読書で、きちんと論理構造を把握することができるので、理解が捗ります。

例えば、こんな感じです。これは、サピエンス全史(上)の第8章「想像上のヒエラルキーと差別」のある見開きページです。

このときは緑の蛍光ペンで線を引いていた(ちょっと見にくい)

この節では「歴史上普遍的に見られる男性優位社会や家父長制に関して、その起源となりうる男女の性的差異については、諸説あるものの、説得力のある普遍的な説明は見当たらない」という話を展開しています。

そこでぼくが蛍光ペンを引いた箇所だけを抜粋してみます。

最も一般的な説は、男性の方が女性よりも強く、男性は優越した体力を使って女性を無理やり服従させてきた、というものだ。

筋力を重視するこの説には、2つの問題がある。第一に、「男性の方が女性よりも強い」という主張は、平均した場合にしか成り立たず、また、特定の種類の強さにしか当てはまらない。

さらに重要なのだが、人間の場合、体力と社会的権力はまったく比例しない。

それどころか人類の歴史からは、身体的能力と社会的権力が反比例する場合が多ことがわかる。

というわけで、歴史上最も影響力が大きく安定したヒエラルキーが、女性を力ずくで意のままにする男性の能力に基づいているとは信じがたい。

p.194

このように、およそ見開き1ページの内容が、約250文字に収まっています。そして、ぼくが蛍光ペンで引いた箇所は、すべて1文で、すべて違うパラグラフからの引用となっています。それだけでも十分に内容が汲み取れるようになっています。これは原著がとてもきれいに編集されている証でもあります。

この作業のときにぼくが注意していることは、「最も一般的な説は」「この説には2つ問題がある」「さらに」「それどころか」「というわけで」というように、文頭で論理展開を促しているところを見逃さないことです。

子供の頃の国語や現代文の試験ってめちゃくちゃ嫌いだったし苦手だったけど、あのころの勉強ってとても意味があって、こうして論理構造を抜き出して、要約していくことに活きてくるんだと痛感します。

そして、蛍光ペンで線を引きまくって読了したあと、1週間くらいあえて時間をおいて、2周めにそこだけを読みます。分量が10分の1くらいになっているので、15分くらいあれば読めます。

そこから更に1ヶ月くらい寝かせたあと、ぼくは読書ノートを作ります。このへんの寝かせ方は、英語学習で身につけた忘却曲線が役立っています。

読書ノートを作るときは、蛍光ペンで線を引いた箇所を、さらに要約した形で、自分の言葉でまとめます。そこで、実質的にはアウトプットの作業をしていることになります。

先程の例で挙げた箇所の読書ノートはこんな感じです。実際には、先程の箇所はわりと全体の中では些末な箇所(全体の主張の具体例のひとつ)なので、内容にはまったく触れていませんが、最後のところ(太字)で端的に触れています。

ヒエラルキーの例:ハムラビ法典(上層自由人、一般自由人、奴隷)アメリカ独立宣言(男、女、黒人、白人)ヒンドゥー教(カースト制)など
ヒエラルキーの起源は、不自然なことを禁じようとする動機から始まる。しかし、自然と不自然の区別は、虚構だ。
特に、現在では自然と不自然はキリスト教的なデザイン論(神の秩序)から来ている
しかし、家父長制は、ほぼすべての民族に普遍的に存在している。これについては、何らかの生物学的男女差があると認めざるを得ないが、確たる理由は不明。

こおるかもの読書ノート

こんな感じで、本の論理的骨格を凝縮して、あとは気が向いたときに読書ノートを読み返すようにしています。

ちなみにぼくは読書ノートをEvernoteで作っていて、自分が持っているどの端末からもアクセスできるようにして、なにか思索に耽りたいとき(=仕事をサボりたいとき)に読み返すようにしています。

Evernoteで作っている読書ノートのリスト

とはいえ、ここまでの作業は難しい!というふうに思われた方も多いと思います。

そこで、最後に紹介する技法は、だれでも簡単にできて、絶対に自分の成長につながりますので、ぜひ参考にしてください。

技法その3:読書の数珠つなぎ

読書をしてもどうしても内容を忘れてしまう、という方におすすめなのが、本を読んだら、その本をきっかけにして、次の本を選ぶ、という方法です。これを読書の数珠つなぎとでも呼びましょう。

これを実践することで、たとえ前に読んだ本の内容を忘れてしまっても、少なくとも思索は前進し、その遍歴は残ります。本棚に時系列で並べるだけでも、自分の考えが浮かび上がってきてとても楽しいです。

僕自身、この考え方を実践していくなかで、思いがけない方向へ考えが進展したり、仕事の中での考え(宇宙開発をやっていて疑問や課題に思うこと)と融合して別の道がひらけたり、いろいろな経験が重なって財産となっていきました。

そこで最後に、自分がこの読書の技法を実践していって、本当に起こったすごい体験を紹介してこのエントリーを終えたいと思います。(長くなりました!すみません!)


僕は二十歳の頃に、いろいろなきっかけで父との関係がうまく行かなくなり、そのことに悩む中で1冊の本に出会いました。

その本の中で、村上春樹(日本の小説家・翻訳家)、エマニュエル・レヴィナス(ユダヤ教哲学者)、ポール・オースター(アメリカの小説家)、アウグスティヌス(ローマ時代の教父)、ドストエフスキー(ロシアの文豪)などが紹介されていて興味を持ち、そこから読書の海に飲み込まれていきました。

けれども、そもそも世の中や歴史のこと何も知らないなということを痛感して、前述したような世界史をテーマに読書を始めました。

その中で、哲学や宗教が本当のところどのくらい人間社会の秩序の形成に寄与しているのかとても興味が湧き、それらを学んでいきました。古代アニミズム、ユダヤ教、キリスト教、仏教、神道、西洋哲学、東洋思想、広く浅くではありますが、いろいろ勉強してみました。

その結果、自分の考えとしては、歴史を紐解くこと(何かと何かの因果関係を特定すること)はそもそもとても難しい側面があって、短絡的な発想ほど間違っていることが多いと感じました。

例えば人文学系では有名なマックス・ヴェーバーの「プロ倫」ですが、ぼくが勉強した範囲のプロテスタンティズム(カルヴァン主義、アブラハムカイパーの社会思想など)や、資本主義の歴史的な成立過程をいくら追っても、どう考えてもプロ倫のような結論(プロテスタンティズムの内在的な世俗内禁欲が資本主義のエートス(倫理的正当性)を与えた、云々)にはならないと思います。

要するに、もっと世界ってドロドロとしていて、説明困難で、なにかの理論に還元しえないものなんじゃないか、という考えに至りました。

そうすると、今度は、ドロドロしているからもういいや、ではなく、それを如何に説明可能なものにするかという方法論(メソドロジー)を学びたいと考えました。

具体的には、西洋哲学がその一丁目一番地として誇るアリストテレス論理学、そして現代まで連なる論理学の体系、さらにはある意味でその真逆をいく東洋思想の論理。例えば西洋の基本的な論理では矛盾は常に偽となりますが、東洋思想では、荘子「ひとつであるものはひとつである。ひとつでないものもまたひとつである」みたいな、矛盾の中にも人間の生のありようを表現することを目指す方法論もある、ということがわかりました。

つまり、論理的に物事を分析する方法論自体が、実は相対的で、普遍的に正しいものなんてないんだ、ということに気づいたのです。

となると、正しい論理を紡ぐということ自体が無理じゃん、と絶望的な気持ちにもなるのですが、もちろんそうした課題に対しても過去の思想家はたくさんの思索を重ねてきました。今度はそうした思想の勉強に進みました。

例えば、

ウィトゲンシュタインのように論理学を記号論として厳密にやろうとして、その結果、論理的意味とはすべて共同主観に基づく言語ゲームに過ぎない、みたいな元も子もない結論になったり、

エマニュエル・レヴィナスのように、論理を他者との関わりにおける倫理的責任として理解しようとして、その結果、無限責任という発想に帰着し、主体が押しつぶされて、他者に語りかけることは最終的には不可能だ、みたいな割りと不毛な結論になったり、

西田幾多郎のように、矛盾こそが宗教的アルキメデス点であり、主体即客体となるのだと主張してみた結果、東洋と西洋の場所的弁証法としてなぜか日本の皇室こそがすべての意味の根源であるという大変危険な結論になったり、

結局哲学的な思索だけではうまくいかないんだね、というところに僕のなかでは落ち着きました。

それでも、世の中は動いていくし、なんとかしなくてはいけない地球規模、いや宇宙規模の課題はたくさんあります。なにを隠そうぼくは宇宙開発をやっているではないか。

そこで、自分の中で哲学や宗教の基礎的な勉強には区切りをつけて、自分の置かれた分野においてどのように哲学や宗教的思索が役に立つかを考えるという指針で、本を選ぶようになりました。

その中で出会ったのが、宇宙倫理学や公共哲学という分野であり、今度はこうした分野の本へ数珠つなぎをしていきます。

例を挙げれば、例えば月の資源って誰のもの?という課題に対しては、ジョン・ロックの所有権理論(統治論)が参照できます。そしてそれは、当時の社会契約論の枠組みで捉える必要があります。(ホッブス、ルソーなど)さらにその当時は、キリスト教的価値観が宗教改革を経て徐々に世俗化していく時代とも重なります。(カルヴァン、デカルトなど)

他にも、宇宙に関する国際条約ってほとんど国際的なコンセンサスが取れないのですが、例えばこれは、ハンナ・アーレントのようにギリシャの民主主義に再び光を当て、自由で活発な民衆の議論こそが社会秩序の出発点であるべきだというところから、どのような議論の枠組みであれば、フェアであらゆる人が納得できるかということを考えていく公共哲学が重要な役割を持ちます。(ジョン・ロールズ、マイケル・サンデルなど)

そんなことを学んでいるうちに、あるとき、とある大学教授の方の著作に出会います。

その方の本は、まさに僕の考えていること、課題、悩みを序論のたった数ページで捲し立てて、「で、ここからが本題ですよ」と語りだします。その数ページでぼくは初めて本を読んで度肝を抜かれました。まるで僕の歩いてきたこの長い道のりを全部知ってくれていて「ようやくここまできたか」という感じで出迎えてくれたような感動を覚えました。

ジャンルで言えば公共哲学ですが、本文に入ると、公共哲学ではとどまらない幅広い分野を縦横無尽に行き来して、論理的な構造もとてつもなく難しく、例の蛍光ペンが何本も何本も擦り切れて、いくら読書ノートを作っても収まらない、まさに思索の海でした。ぼくは直感的にこの人の弟子になりたいと思いました。

そして、いてもたってもいられなくなったぼくは、その先生の研究室へアポ無しで突撃しました。

先生はこんな無礼なぼくをそれでも優しく出迎えてくれて、弟子になりたいと伝え、連絡先を交換して、その後定期的に勉強会を開いてくださいました。

その勉強会が1年ほど続いた頃、その先生が大学を退官されるということで、最後の授業は記念講演になるというお知らせを受け取りました。ぼくはすぐに、「学生でもなんでもないのですが、もし可能であればぜひ伺わせてください」、と返事をしたのですが、すると先生からなんと、「こおるかも君、時間を半分あげるから、なんかしゃべってくれないか?」という連絡が。

もちろん、大学教授の「最終講義」というのは、その時のゼミ生だけでなく、往年のゼミ生、そして弟子に当たる現役の若手研究者も集います。そんななかで、そもそも人文学の学位もない人間がどうして話をしていいのかととても悩みました。

だけれども、先生から、「社会人として、しかも普通のエンジニアの人がこうして考えをもって取り組んでいるということを、学生や大学の研究者に知ってもらいたい」というようなお言葉もいただき、引き受けることにしました。話した内容は、上記に書いた通りの思索の変遷や、とくに宇宙開発に関して自分が考えている諸課題についてです。一世一代、パワポ30枚くらい作って熱弁しました。

本当に単なる興味本位で始めた読書の数珠つなぎが、繋がりに繋がって、最終的に大学のゼミ生に講義をすることになるという、嘘みたいな本当のお話でした。

これでぼくの読書の技法のお話を終えます。少しでもみなさまの読書ライフの糧になったならとても光栄です。

最後までお読みいただいきありがとうございました。

ついでに、下記の読書ノートの記事もぜひ読んでみてくださいね。

本当はいままで作ってきた読書ノートを公開するのがこのNoteを始めた一番のモチベーションだったのだけれど、かなり労力を要する割にあまり読まれないということに憂いてなかなか進みません。今後頑張るかもしれませんので、応援もよろしくお願いいたします。



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