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夏休み初日にとりとめなく思う

小学生もようやく夏休み。
朝からスコーンを焼いたりして、我が家の空気はのどけく平和。

ギーと泣く、あの子。
楽しい時は刺激を受け止めるが精一杯で、真顔になってしまう、うちの長女と、どこか近しいところを感じていて、贔屓にしている。そりゃあ親友の娘、だもの。
しかし彼女の抱腹絶倒を、わたしはまだ目撃していない。見たい…。

子の行く末、それは、時間と経験だけが紡ぎ出すものだと知りながら、親というものは、心だけ、タッタカターと先に走っていっては、そのことを案じる。こっそりと、時にどっぷりと。何度も。

どうか幸せに、というのが親の欲で本音だけど、世の中には辛いことも悲しいこともあるのが本当だから、泣いたっていいし傷ついたっていいと思う、それでも前を向く力とその糧になるようなものを、1日1日蓄えていってほしい。少しでも与えてあげられたら。

というのは、長女2歳のお誕生日にあたり、Facebookに投稿していた気持ち。母2歳、なかなか良いことを言う。

歳を重ねるにつれ、20代前後くらいの、エネルギーに満ちた個体同士が輝かしく爆ぜる、あの空気感はなりを潜める。まだまだわたしたち(30代後半)は、社会の中の若手だけれど、いささかくたびれてきたのを、感じている。自分や、大切な人たちが、人生のほろ苦い巡り合わせに、前触れもなく、遭遇したりもする。それは一度ではないかもしれない。出会いもあり、御縁はこれまでの時間を糧にどんどん広がる。お世話になった人たちを遠くに見送るような、別れもある。

長女2歳から6年、6年分の悲喜こもごもを経て、わたしの見方も少し変わった。世の中が大きく畝る今、ということもあって、余計に。母8歳を前に、こう思う。もしこの先、彼女たちが、辛い、と、思うことが、避けられることならば、何かに遠慮せず、どんどん避けてほしい、と。
時間は有限、というのを、じわりじわりと身体で感じるようになったからなのか。心を拗らせる厄介さを、時間が重なる度に、侮り難く思うからなのか。は、わからない。
ただ、やりたいことに正直であって欲しいな、と思う。やりたいこと、は、変幻自在であってよい、とも。

そんな心の変遷も手伝って、長女はこの数ヶ月、ピアノをお休みしている。自らやりたがり、しかし練習は嫌がってやらず、だのに弾けないと言って泣く、頭を抱える(わたし)。そのサイクルおよそ2年、から解き放たれて、練習をしない娘、ではない娘と、相対する時間が増えた。そしてやりたいことに充てる時間、が、お互いに格段に増えた。またやりたいと思った時、やろうね、ピアノ。

でも、本質的な、辛さや悲しみは、たぶん自分の中にある。避けられることを避けても、娘たちの踏ん張り時は、いずれ来るのだろう。
2年前の夏、娘たちと、エルマーのぼうけん、を、プーク人形劇場で観劇した。あの有名な大冒険の最後、りゅうに乗り、帰路についたエルマーは、お母さん心配してるかな…と案じるが、『きっと信じて待っていてくれる!』と、確信に満ちた明るい声で言い放つ。その眩しい言葉が、思いがけずにメッセージ性を強く持ち、迫ってきて、圧倒され、涙が止まらなかった。(原作にもある台詞なのかは、存じ上げない。原作、読みたいな。)
親ができるのは、待つこと、信じること。
究極にはその二つしかなくて、とても難しい。

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