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それでも生きようとした貴方【映画『ブロンド』を観て】

マリリンの笑顔について、どうしてあんなにも魅力的に人々の瞳に映るのかを考えるとき、
私は彼女の心を想わざるを得ない。

単純に外見が美しいからだけではない。
どんなに人生に絶望して、身も心もボロボロになって、生きるのが辛くてたまらなくても。
それでも愛されることを諦めることなく、真摯に生きようとしてくれたその姿。


彼女自身、傷つきやすい自分の心の繊細さや克服しきれない劣等感にどれだけ涙を流し、絶望しただろう。
どれだけ助けを求めただろう。
消えてしまいたいと願っただろう。

それでも私は、彼女の繊細で、劣等感や絶望感でいっぱいだったであろう心に、それでもかけがえのない美しさを感じるのだ。

絶望の中でも必死で浮かべてくれた笑顔に。
劣等感の中でも、自分が好きな自分になろうと、他人から愛される素晴らしい人間になろうと努力したその姿に。
壮絶なまでの美しさと魅力を感じるのだ。

映画『ブロンド』を見て、一番悲しかったのは、一番悔しかったのは、自身の繊細さや劣等感に絶望しながらも、生きるのが辛くてもたまらないと嘆きながらも、それでも精一杯生きようとした彼女の姿を「可哀想なマリリン」としてしか映してくれなかったことだ。

悲しくて、辛くて、可哀想

「マリリン・モンローの人生がこんなに壮絶だったなんて」
「愛に飢えていた彼女」
「悲しすぎる」「辛すぎる」
「誰か1人でもマリリン自身を愛してあげていれば…」

『ブロンド』をSNSで検索すると、このような感想が多数あり、本当に悲しくて、辛くてたまらなかったし、正直怒りさえ湧いた。(検索しなければいいという話なのかもしれないけど)

どうして亡くなってから60年経ってもなお、「被害者」として彼女が消費されなくてはならないのか?
彼女の人生について、「悲しい」「辛い」だなんて評されなくてはならないのか?

確かにマリリン自身も自分の不幸な生い立ちをイメージ戦略として活用したこともあっただろう。自身の不幸を誇張して話したこともあったという説もあるときく。

でも、彼女は他人に同情されるために生きたわけではない。
ましてや、他人に同情されるために死を選んだわけではない。

とても繊細で、傷つきやすくて、不安定で、劣等感でいっぱいで。
それでも愛される自分でいたいから、一生懸命に微笑んでくれた。
人々の笑顔のために、彼女自身がどれだけ傷つこうとも、ダムブロンドとしての演技だってした。きっとプライドを持って演じていたはずだ。

幸せだと感じた瞬間もあった。かけがえのない思い出も。

生きたくて、生きたくて。
どんなに悲しくても、苦しくても、虚しくても生きたくて。
だけど、最期は自ら死を選んだ。
それを「悲劇」だと言って消費するのか?


彼女のどうしようもないくらいの劣等感の背景には、「教養がないとされる自分」「不幸な生い立ちだと同情される自分」「ダムブロンドとして消費される自分」があっただろうに。
それを克服するために、乗り越えるためにどれだけの努力を重ねたか。

そんな彼女を映画を通して、「可哀想なマリリン」として、「悲しくて」「辛い」「被害者」として、消費されなきゃいけない理由が、私にはどうしてもわからないのだ。

愛されていなかったわけがない

『ブロンド』ではマリリンを愛した様々な男性が登場するが、どの男性もマリリン自身を本当に愛しはしなかった男性として描かれる。
嫌な言い方をすれば、男性は皆、彼女を欲の吐口として、母性を象徴する存在として、自分を慰めてくれる存在としてしか彼女を見ていなかったのだと、切り捨てる。

マリリンが結婚した相手として2人の男性が登場するが、彼らも結局同様の存在として扱われる。

1人目は元ニューヨーク・ヤンキースの大打者でアメリカのヒーローでもあったジョー・ディマジオ。
2人目はピュリッツァー賞を受賞した経験もある作家のアーサー・ミラー。

出会った当初は両者ともマリリン自身を理解したように振る舞い、彼女もそんな彼らに惹かれて結婚するが、「結局彼らもマリリン自身を理解できなかった」「本当の意味で彼女を愛してはいなかったのだ」とでも言いたいかのように、彼らをいかにも最悪な男達だというように描く。

しかし私は、マリリンの繊細さや劣等感、消費される自分自身に深く傷つきながらも、他人から愛されることをどうしようもなく求めていることを彼らは知った上で、知ったからこそ、本当に心の底からマリリンのことを愛していたのだと強く思うのだ。

ジョーは確かに嫉妬心の強い男だった。演劇や詩を愛するマリリンと異なり、テレビや野球中継ばかり眺めているような男だった。
それは事実だ。

アーサーはジョーと異なり作家であるからこそ、マリリンと共感し合えることはたくさんあっただろう。彼女が彼女自身が望むように生きることを真に願っていただろう。
それでも、彼女がずっと抱えて生きてきた不安に応え切ることができなかった。
彼女の人生の最後まで寄り添い続けることができなかった。
それも、事実だ。

だけど、ジョーはアーサーと離婚してボロボロになっていたマリリンを最期まで支え続けようとした。マリリンの死後、死後20年間に渡り週3回、墓前に赤い薔薇を捧げ続けたという逸話さえある。

アーサーも、きっとたいていの夫よりも深い愛情で誠心誠意マリリンに接していたはずだ。そうでなければ、マリリンを支えるのに手一杯で作家であるのに何も書けない期間が続いていたのに、4年半もの間、マリリンと結婚生活を続けることなんてできなかっただろう。

マリリンと彼らが本当に愛し合っていた時間は確かにあったはずだ。

それでも、お互い違う人間同士だから。
どうしても永遠には一緒にはいられなかった。

彼女の傷つきやすい、劣等感でいっぱいの、愛されたいと願い求め続ける心を。
彼らの愛情を持ってしても、救うことはやはりできなかった。
幸せな結婚生活が続くのを誰よりも望んでいたのはマリリン自身だっただろうに。

『ブロンド』にはそういった描写が苦しい程になかった。
やはり「誰からも本当の意味で愛されなかった可哀想なマリリン」を演出するために彼女を心から愛したであろう夫でさえ、「マリリンを消費する男達」の1人として利用して描かれていると感じる。

そして、女性達も同じように、或いはもっと陰湿に描かれる。

幼少期の母親からの虐待の描写。
成人してからも母親から関心を持たれない描写。
泣くマリリンを孤児院に隣人の女性が無理やり連れて行く描写。
20世紀FOXの最高幹部ダリル・F・ザナックの女性秘書が、マリリンがダリルにレイプされたことに気づいても見て見ぬふりをする描写。
楽屋にいるマリリンの手伝いをする女性達が、マリリンを侮辱するファンレターを声高々に音読する描写。
ジョーと結婚した後、リビングに集まる女性達がマリリンの髪の色を「本物の色?」と聞き、マリリンが否定したのに対し嘲笑する描写。

このような扱いをマリリンが受けたかもしれない。その可能性はゼロではない。
そんなことはわかっている。

だけど、マリリンが「教養のない女性」、「ダムブロンド」として扱われることから必死の思いで脱却しようとしていたことに、心を動かされた女性だっていたはずなのに。
マリリンの笑顔や演技に心から魅力を感じていた女性だっていたはずなのに。

やはりそんな女性たちの存在は、『ブロンド』では消し去られているのだ。

人生をエンターテイメントの題材とすること

『ブロンド』は「マリリン・モンローの生涯を描く」としながらも、「あくまでフィクションである」とも述べられており、事実に基づかない描写も多くあることが指摘されている。

正直私は鑑賞時点で、何が事実で何が事実じゃないのか判断できるほど、マリリンについて詳細に知っている訳ではなかった。

しかし、たとえフィクションであったとしても、「マリリン・モンロー」だけでなく、実在した人物の人生を映画というエンターテイメント性が伴う作品の題材にするならば、題材とする人物への敬意が、題材とする人物を尊重する心がなくてはならないと強く思うし、正直それは当たり前なことだとすら思えてしまう。

「フィクションだから」
「監督が作りたいから」
そのための作品なら、マリリン・モンローの人生を題材にするのではなく、自分でオリジナルの脚本を描き、映画にすればよかったのではないか?とすら思えてしまうのだ。

また、アーサーを演じたエイドリアン・ブロディは、上記記事の中で『ブロンド』について、こう述べたとされている。

「描写が極端であろうとなかろうと、最も有名なハリウッドのアイコンの名声と栄光に対する世間の認識と、孤独やむなしさ、精神的な混乱、依存といった個人としてのリアリティとの間に、大きな隔たりがあるのは名誉なことである。それゆえ、僕はこれが全て物語の一部なんだと思った。監督が意図したところだと思う。これこそ、恐れを知らない映画製作だ」

名誉なこと、なのだろうか。
マリリンは、「ダムブロンド」という世間の認識と「良い女優になりたい」と願うリアルな自分の間に隔たりがあることに苦しんで苦しんで、なんとか克服しようと必死で生きて、それでも死を選んだのに?

その隔たりに苦しむ姿を、フィクションも大いに含んだまま、幸せな時間を切り捨て、悩み苦しんだ時間のみ人生の一部として切り取り、エンターテイメントとするのが、恐れを知らない映画制作だと思わなくてはいけないのか。
それも正しいと思わなくてはいけないのか。

今の私には、わからない。
わからないのが、とても辛いのだ。

真摯に、必死に、生きた

鑑賞後、私はマリリンと同じように、傷つきながらも必死に生き、それでも自ら命を絶つという選択をした、或いは早逝された方々を思い出した。

彼らについても、「悲劇」として消費されなくてはいけないのか?
それも作品だとして、評価しなくてはならないのか?

最悪だと言われる選択をしたこともあった。
取り返しのつかない罪を犯したりもした。
「真実」を我々が知る日はきっと永遠にこない。

それでも、彼らが、彼女達が生き抜いた時間は私たちにかけがえのないものを残してくれた。
生きるのがあまりに辛くてたまらない世界でも、傷つきながらも、自分の人生を諦めずに、真摯に、必死に、生きた。

それだけでは、ダメなのか。
そのまま受け取ってはいけないのか。


一部を切り取らずとも、誇張のための描写を混ぜずとも。
彼女の人生は、生き方は、それだけで十分魅力的で美しかったはずだから。

最後に。

『ブロンド』をマリリンが見なくてよかった。
そんなふうに思いたくはなかったけど、やっぱりそれが今の私の正直な気持ちです。

『燃ゆる女の肖像』や『NOPE』といった
「見る、見られる」の関係性を丹念に描いた作品がある一方で、『ブロンド』のような作品も出てきてしまうのが何とも皮肉だなと思ったり。

最後に、この映画には描かれていないマリリンの生き方について、まとめた記事があったため紹介させていただきます。

『ブロンド』とは全く逆なことが述べられているのが、今は切なく感じたりしてしまいました。

また、マリリンにインスパイアされて作成されたMV『マテリアル・ガール』が印象的であり、世界で最も成功したアーティストの1人であるマドンナは、ジミー・ファロンのテレビ番組に出演した際、自身の伝記映画について、自身の声とビジョンでシェアすることが不可欠だと語っています。

彼女の生き方についてもまた、美しさと強い魅力を感じます。

冗談な女には思われたくない。
必死に願い、生きたマリリンの美しさをどうか多くの人が想ってくれればいいと、今はただそれだけを願っています。

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