悲劇を超えて遺されたもの【映画『スペンサー ダイアナの決意』を観て】
「ここでは2人の自分が必要なんだ」
「本当の自分と、(王室の人間として)写真を撮られる自分」
『スペンサー ダイアナの決意』の中で一番印象的だったセリフを1つ挙げてと言われたら、私はこのセリフを挙げる。
本作の中で、皇太子であり夫であるチャールズから、妻であるダイアナに告げられる言葉。
誰だってそうだと思う。
仕事を始めてからは特にそうだ。
仕事用の、公用に見られる自分。
そして、自分に正直な自分。
余程の善人か、鈍感な人間か、自分に自信のある人間か。
そうでなければきっとその2つがいかなるときも全く同じというわけにはいかないだろう。
だからこそ私たちは、仕事がない日や時間を求める。
休みという、自分に正直な自分で居られる時間と居場所を求める。
しかし、自分に正直な自分で居られる時間も居場所も全く持てなかったら?
自分に正直な自分であることを、誰も許してくれなかったら?認めてくれなかったら?
終わりがあるのであれば、耐えられるかもしれない。
でもそれが一生、最期まで続くことが定められていたら?
それが例え国のためだと、王室の皆のためだとしても。
それは果たして生きていると言えるのだろうか。
美しく、決められた通りに生きる
本作では「決められたもの」が演出として多く登場する。
クリスマスには毎年エリザベス女王の私邸に集まりお祝いすること。
私邸までの辿り着き方。到着する順番。
到着してからの「仕来り」「慣わし」。
豪華な食事に使われる食材。
メニュー。食事の時間。
誰が集まりどの席に座るか、そこで何を語るべきか。
1日のスケジュール。1日の衣装。
何時に起き、何を着て、何時に出発し、どこに訪れ過ごすか。
どのように微笑み、どのように振る舞い、どのような発言をすべきか。
「未来はなくて、過去と現在は同じもの」
ダイアナは子供たちに言う。
常に前例踏襲でなければならない。
だから、過去と現在は常に同じ。
変化を許さない。
未来が今よりも希望に溢れたものを指しているとしたら。
ダイアナにとって、未来はないものとしか思えなかったのだろう。
「たとえ嫌なことであったとしてもやらなければいけない」
チャールズはダイアナを諭すように言う。
チャールズのように、或いはウィリアムやヘンリーのように。
王室で生まれ、王室で育ち、王室の中でのみ生きてきた人間であれば。
ダイアナがただ美しく、頭が空っぽな人間であれば。
子供たちを想う心がないような人間であれば。
正直な自分として生きることを諦めることができたかもしれない。
もういっそ全て終わらせてしまえばいい、と自ら死を選んだかもしれない。
だけど、そうではない。
そうではなかったはずだ、ということを本作は強く示す。
1人だけ救われようとせず、子供たちの未来が少しでも希望に溢れたものになることを願い、本作の中でダイアナは自分の人生を、王室を、英国を大きく変えるような決意をする。
そして、その決意は本作の中でダイアナが唯一心を許すことができた人物からの愛情を、ダイアナ自身が自覚したことによって成される。
思った。
彼女がいなければ、ダイアナはおそらく決意できなかっただろう。
正直な自分として生きたいという願いを自覚するだけではダメなのだ。
自分自身で思うだけでは、認めるだけではダメなのだ。おそらく、きっと。
正直に生きる自分を誰かが見てくれなければ。
認めてくれなければ。許してくれなければ。
受け入れてくれなければ。
そんなあなたであってもいいんだと、伝えてくれなければ。
人は正直な自分として生きていいのだと、心から思うことはできないのだ。
みんな、あなたを愛している
ダイアナに仕え伝統を守ることを求める人々も、チャールズも、エリザベス女王も。
皆、悪人ではない。
ダイアナのことを嫌ったり、見下したり、憎んだりしているわけではない。
皆、彼女のことを想っており、愛しており、求めている。
しかしそれでもやはり、彼らが、彼女らが求めたのは王室で決められた通り、美しく囲われたまま生きるダイアナだったのだと思う。
彼女自身は自分に向けられる愛や忠誠心や願いを知りながら、応えたいと願いながらも、その生き方を拒絶する。
美しい城に囲われたまま。飼われたまま。
過去も現在も未来も決められたままの生き方を拒絶する。
夫から与えられた美しい首輪を、自らの手で引きちぎるのだ。
美しい彼女を見ながら思った。
どうして私たちはダイアナという人に惹かれるのだろう?
興味を持ってしまうのだろう?
死してもなお、彼女の姿を追いかけてしまうのだろう?
王室の人間なんて、自分たちとは全く違う生活をし、自分たちとは全く景色を見ているというのに。
外国の王妃なんて、自分たちには全く関係のない人間なのに。
彼女が正直であったこと。
自然や平凡さを求めて生きたこと。
それゆえに、悲劇とも思える結末を迎えるに至ったこと。
それでも、生きようともがき、前へと足を踏み出し、走り、将来を生きる子供たちの手を引いてくれたこと。
今でも私たちの心をとらえて離さない理由。
それがわかった気がした。
実際の悲劇に基づく寓話
本作は実話に着想を得たものであるとしながらも、「寓話である」と冒頭で示される。
「寓話」とは?
意味が掴めず、鑑賞後インターネットを眺めた。
意味としては、比喩によって人間の生活に馴染み深い出来事を見せ、それによって諭す。
教訓又は風刺を含めた例え話である、らしい。
なぜ単にフィクションだと、
御伽話だとしなかったのか?
当然映画の中に明確な答えはない。
ただ、思うに、御伽話はハッピーエンドなのだ。
王子様はお姫様にプロポーズされ、結婚し、2人は幸せに家族で暮らす。
だけど現実はそう上手くはいかない。
結婚しても、子供ができても、幸せになれるとは限らない。
本作は夢のような物語だった。
あんな行動をダイアナは現実にはとれなかった。
現実のダイアナにはハッピーエンドは訪れないのだから。
だけど、「御伽話」にしたくない。
現実はこうじゃなかった。
そんなの知っている。
それでも彼女はきっとこう生きたかったはずだ。
泣きたかったはずだ。走りたかったはずだ。
踊りたかったはずだ。
歌いたかったはずだ。
現実は悲劇なのかもしれない。
それでも悲劇を乗り越えた先に、語りづがれるものがある。
遺されたものを受け継ごうとしている人々がいる。
そんな思いが込められた映画であるように感じた。
余談
映画の中のウィリアム王子がいい子すぎて思わず検索したら、ウェールズ公としてインスタがあって驚いた。
個人的にすごく好きな写真。
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