バービーとオッペンハイマーと独立記念日

8月15日といえば、日本では専ら終戦の日であるが、インドでは独立記念日である。あまり連結性がないように思われるが、実はつながりがある。元々インドは1930年に1月26日を独立の日として選定していた。インドの独立も本来は1948年の同日に予定されていた。しかし、ムスリム連盟とコングレスの衝突によりインドの暫定政権が内部崩壊することを恐れた最後のインド総督マウントバッテン卿(注:フィリップ王配の叔父。数奇な運命を生きたショーマンであり、のちにアイルランドでテロに遭い、命を落とす。)が早急な独立を促し、第二次世界大戦における日本の降伏の二周年をインド・パキスタン両国独立の日として選んだ。そのため、奇しくも戦後日本の誕生日と独立インドの誕生日が同一のものとなったのである。

そんな話バービーともオッペンハイマーとも関係ないじゃないか!まあ少し待ってほしい。一週間前になるが、インド議会により、8月9日に長崎への原爆投下の犠牲者を偲び、平和を祈念して一分間の黙とうが行われた。日本以外の国の政府機関、ましてや議会が広島・長崎の犠牲者に想いを寄せ、70年以上経った今も原爆の日に黙とうを捧げてくださる例を私は他に知らない。原爆を投下し、今も日本の同盟国であり続けるアメリカですらそのようなことはない。そもそも原爆に対する意識が日本と海外では全然違う。例えばウクライナ紛争での核使用に関する海外の評論でも、限定核の使用がありうべき事態である(もちろん批判されるべきものであるが)という書き方がなされる。広島、長崎という言葉は言及されるが、日本の教育を受けている中で必ず学ぶ、原爆が落とされたことによる人々の苦しみ、その凄惨さ、世界の崩壊とも思われるような絶望は描かれないし、言及されない。通常兵器の延長線でとらえているから、「核戦略」「戦略核」などと言えるのではないだろうか。否、核は偉大な頭脳により率いられた善の文明による最先端の科学的探究の成果であると捉えられている節すらある。だからこそ、映画「バービー」の宣伝でピンクのきのこ雲なんていう冗談じみた宣伝文句を使うことができるのであろう。

インドの核兵器に対する立場は若干西洋諸国とは異なる。インドはおそらく核兵器を手放すことはない:パキスタン及び中国が持っている以上、他に自らを守る手法がない。一方で、インドは核の先制不使用宣言をしている。他の国がインドに対して核を使わなければ、決して核を使うことはないとの宣言である。インドの中で、核は自由と独立と国民の安全を保障するために持ち続ける必要悪であり、だからこそ、核保有国でありながら、日本における核兵器の犠牲者に黙とうを行うのである。

核兵器の父ともいうべき、マンハッタン・プロジェクトの父ロバート・オッペンハイマーが、世界初の核実験「トリニティー」を見た際、バガヴァッド・ギータの中の一節を口にした。「Now I am become death, destroyer of worlds」クリシュナ神の言葉である。ギータの中で(これはどうしようもないので簡略化するが)クリシュナ神は、戦士アルジュナから相談を受ける。アルジュナ曰く、自分は戦争で戦うことになり、自分の行為により何万もの人が命を落とす。しかし、これは自分の戦士としての責務である。責務を重んじるべきか、行為により生じる結果を重んじるべきか。これに対してクリシュナは、義務を優先すべきであると断言する。まさにベンサムとカントの哲学的議論を数千年先取したようなものであるが、オッペンハイマーがこの言葉を口ずさんだのは、自分をアルジュナに重ねたためであろう。自分の発明によって無垢の民に降り注ぐ絶望と自分の愛する国への責務を天秤にかけたとき、自分はクリシュナの教えのとおり責務を選んだ。だがそれにより生じる絶望は自分が背負わざるをえない十字架であり続ける。そのためか、戦後オッペンハイマーは水素爆弾の開発に反対し、ソ連に核開発のノウハウを伝達するよう主張したためにアメリカの防衛政策形成から外される(注:映画も本も強調するとおり、同氏は共産主義への傾倒がなかったとも言えないため、それも影響したのかもしれないが。)クリストファー・ノーランの映画は、オッペンハイマーの天才性をいささか強調しすぎであり、原爆の人的影響を軽視しすぎである(注:トリニティ実験によるニューメキシコ州民への健康被害にも全く言及がない)ように思われつつも、天上天下唯我独尊の天才の没落における内からの蝕まれ方を強く印象付ける。

この映画と同時上映開始されたバービー(ここでようやく笑)と併せて、「バーベンハイマー」が一気に欧米メディアを沸き立たせた。まっピンクのバービーと白黒で殺伐を印象付けるオッペンハイマー、こんなに正反対の映画なんてないのではないかと一見思ったが、どちらも一つの世界の崩壊と新たな世界の誕生という観点からみられるのではないかと思う。バービーの世界は現実世界からの男尊主義の流入により価値基準が全て崩壊する。オッペンハイマーは核兵器の発明により相互確証破壊の恐怖にさらされた東西冷戦の世界を作り出してしまう。どちらも、新たな価値観の流布により以前の行動規範・価値基準・人間としての在り方が問い直されなければいけないというアイデンティティ・クライシスに陥る主人公を描いている。バービーはその基準のギャップを見る中で、責務を離れた単なる価値の代弁者ではない自分の個性・人間性を発見する(発見する人間性もコメディックに描かれているが)が、オッペンハイマーは責務の重さと時代の変化に潰され、その名声を一気に失う。バーベンハイマーは、時代のハザマを生きる現代人にだからこそ刺さるのではないだろうか。

8月15日は日本にとってもインドにとっても、一つの時代が終わり、新たな時代が始まった日である。その時代を下支えしてきた様々な機構・価値観が現在問い直されている。資本主義?国際法と国連?福祉国家?限りない資源に支えられた安定した地球環境?これらが問い直されている中、我々は新しい時代の姿を考えはじめなければならないのではないだろうか。VUCAと言われて久しいが、とにかく不安定な末法的な世の中で、アルジュナとクリシュナの議論に立ち戻る必要があるのではないだろうか。この時代を生きる我々の責務は何か、その結末は何か。その結末は、本当に責務を全うしてまで得る価値のあるものであるのか。これこそが、バービーとオッペンハイマーと独立記念日が投げかける問である。

ということで、インドの独立77周年に乾杯。

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