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どこにいっても私たちは心をみる

どうしようもなく 一人。
友人たちがいても、街の喧騒にいても、心洗われるような景色にいても、
苦しさだけが、自分の内側からしみでて、わきでて、ぎゅっと目をつむりたくなる。

私は笑えてるだろうか。
心が孤独だと、ばれてはいないだろうか。
周りに負担をかけてはいないだろうか。

周りの人たちは、とても楽しそうに笑い、
日常をたんたんとこなし、

きっと世界で私だけが置いて行かれていて、
私だけが、この苦しみを耐えている。

そんな気分で毎日を送っていた。
体をひきずるように日常をなんとかやりすごし、
本当はやりたくないのだとか、苦しい、しんどい、疲れたのだとか、いってはいけない。ばれてはいけない。
時々、テストの後だとか、目標達成のあとに、それらはご褒美のように一日よりすくない単位で「疲れた」「しんどかった」といって横になることができる。だけど、それは夕方には回収され、罪悪感とともに明日への不安とつながる。

私はちゃんとやっている。こなしている。
それを職場や学校、日常生活での私ではない誰かの視線で「よし」と判断されたことだけが頼りだ。
なぜなら、自分で自分をよくは評価できなかったから。むしろ、やってないことのみが目について、やったことがすべてノーカウントにされていたりする。自分のなかで。

日常生活は、だんだん酸素がなくなっていく空間で、少しずつ確実に息がしずらくなって、でも「まだいける、まだいける」とその先には確実にゆるやかな死がまっているのにそれをみずに行軍するばかげたゲームだ。

これで倒れたら休めるのかな。倒れたらおしまいになるのに。
倒れちゃえばいいのに。と足元を見ながらすごし、朝起きると何事もなくまたそれが繰り返されるのに心底うんざりするのだ。

気づいてみたら、人と同じ進路を歩むだけのエネルギーはなく、置いてけぼりになった私の心はみなと同じ選択をするだけの生きる力はなかった。
だけど、誰も私の内面を知る由もなかっただろう。

手をぬけばいい。休めばいい。
簡単だよ。という。
けれど、それができない。私一人しかいなくて、がんばらなければ普通の状態にもならない、ついていけてない、という意識の牢獄の中にいるから。

どこにも行き場のない状態で倒れそうにないなかで、倒れられるのをまつ日々。

それが私の10代。

転機をもたらしたのは、そういう人間の社会をぬけて、オーストラリアの荒涼としたアウトバック(内陸)で時間をすごしたことだ。人より、自然が圧倒的で、自分を認識できないくらいの密度の濃い大気が私をかきけしてくれたから。

自分がきえて、大気の一部になって、やっと呼吸ができている、と感じた。
自分の内側に広く、なににも縛られない、ただある、ということが許されている領域があることを、生まれて初めてしった気分だった。
自然や宇宙の悠久のときに、自分を同化したほうが、生きやすいと、そしたら生きていける、と。
普通の人間社会より、オーストラリアの原住民のアボリジニのほうにシンパシーを感じたし、そこから、私でも生きられる場所を探しはじめた。

その後、私の生きられる場所探しは困難を極めた。
オーストラリアに戻り、それぞれの移民の文化の中ですごしたのは刺激的で楽しく、自分を俯瞰できる体験ではあったし、それぞれの慣習の中に身を沈めて、それがまさに私の人生のルーティーンだと逃げることもできた。

だけど、どこにも身をまかせるということができなかった私は、アウトバックでマーキングされた、どこにも所属していなくて、ただあることが許されている、受け入れられている場所を求めてさまよいだしてしまう。

ここは楽しい。でもここではない。

アジアの国を旅しても、アメリカや中南米にいっても、それは同じ。
日本のどこかにいっても。

いつのまにか、また内側から苦しさがしみだし、楽しい時間すらじわりじわりと浸食していく。見て見ぬふりしても、浸食がすすむのは時間の問題だとわかり、それに汚染されていない新しい体験へと自分をかりだす。

結局、大回りしてわかったのは、自分が自分の心と向き合うしかないのだ、ということ。それをするまで、どんなに経験をつんでも、どんなに肩書をのっけても私は幸せになれないのだ。

外側の経験は、一時的な幸せや居場所を与えてくれるけれど、それは永遠ではない。
もちろん、永遠ではないからこそ、私ではない、未知の領域を知ることができる。遠くまで旅することができる。経験値とやらをつみ、わかることがふえる。

だけど、それは水平に広がるところに詳しくなったのであって、垂直にのびさらにそこから四方八方に広がる世界を私たちはまだ知らない。
それらをしるには、私たちはいつでも心に向き合わないといけないし、結局内なる意識の中にしか、私たちはいけない。
自分の意識と調和して、はじめて、ほっと安堵できるのだ。
居場所を、見つけることができるのだ。

本当に人生のほとんどを、苦しさの中ですごしてきたといっても過言ではなく、その経路をたどると、人生を無駄づかいしたようでなんともったいないことをしたのだろうとおののいてしまう。

だけど、やっと、今、私は我が家にいる。
私は、私の中でくつろぐことができる。
それは、なによりだ。

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