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怒りすらも超えていくこと

私は以前、自分はとても下の人間だと思っていました。未熟で、足りていない。怠け者で、言われたこと、約束したことができない落ちこぼれであると。

それは小学校のころから強く思い始め、大人になっても続きました。実際には成績は悪くなく、むしろトップに近いところを走っていたと思います。

ですが、この自分自身の「足りてなさ」「劣等感」と総称してよびましょうか。これは強烈に自分自身の心に取り付いていました。一時的な達成感でそれはなくなるときもありましたが、あくまで一時的。それ以外は四六時中、私に取り付いているものでした。

ずっと自分を責め続けている。

それにすら気づきません。むしろその状態が普通であり、心がいつも苦しくてぎゅっと胸をしめていても気づきませんでした。体が重く、いつも疲れていました。実際、高校のころは、毎日非常に疲れており、みんなそうだと思っていました。

大人になってもそれは続き、私は、だめだしされるのが当たり前。怒鳴られても、ひどい見下し方をされても、それは自分自身のせいだと信じ、ちゃんと認めてもらうために身を粉にして働いたり、勉強したりしました。睡眠時間も休み時間も削って。

そのうち、体がしびれるようになってきたり、死にかけたりと様々な現象が自分をおそい、やっと自分自身を見直す機会がやってきました。

ですが、あとから見れば、それは自分を見直す機会。その頃はなにがおかしいのか、なにが苦しいのかもわかりませんでした。手探りで、暗中模索、雲や霧の中をただようだけのような、苦しい時期が15年近く続きました。ですから私の人生は、自分を責めながら必死で進む期間、苦しくもがく期間でほぼ構成されているといっても過言ではありません。

外側と内側では違うものです。誰も私の苦しさに気付く人はいなかったと思います。

自分自身を蔑んで、厳しく自分を責め立てるのは、悲しいものです。胸が悲しさでいっぱいになります。自分のために迷惑をかけてはいけないと助けを求めることすらしません。

ですが、自分を追い立てるのも限界がきます。体と心を壊しておしまいです。

そこから変わるために、自分が自分をどうとらえているのか、あらゆる資料を読んで手がかりがあれば、それをつかみにいきました。

そのうち、自分が足りていない、と蔑むことがなくなりました。代わりに、怒りがわいてくるようになりました。

対等に扱ってほしい。大切にしてほしい。ちゃんと言葉をかけてほしい。

怒りの根底にはそうした思いがあり、それは自分自身に対しての言葉でした。

それに気づき、一歩一歩進んできて、今があります。

まだまだ自分を蔑む部分は残り、それが苦しい出来事を引き起こすこともあります。それに丁寧に向き合おうとしている。それはとても大きく変わったことです。

そして、それが救いでもあります。

自分で自分を救えるのだから。ちゃんと道がある。

これまでとは違って。

過去の自分にいってあげたい。そして今の自分にもいってあげたい。

ちゃんと、ちゃんと楽になるから。よくなるから。大切にされるから。

私は大丈夫だよって。

人は、自分で自分を救える。

それは、結構、大きな、朗報だと思うのです。

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