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グリーン×ブラックドット 8月に封印した呪いのワンピース

8月になったら、ビリジアングリーンのコットン地に大きめの黒い水玉模様が大人っぽくて似合うねと言われた、子ども時代の思い出のワンピースのことを書くだろうかと考えていた。

9歳の夏休み、見知らぬ男に襲われかけたときに着ていた、呪いのワンピース。タンスの奥に押し込んで、二度と着ることのなかったお気に入りの服。
子どもだったわたしの体に、無造作に触っていった男を憎んだことについて。

いや、そうではない。

まったく理屈に合わないことだけれど、家に逃げ帰ったその時、洗面所でのんびりと洗濯をしていた母のことを、わたしは見知らぬ男の代わりに憎んだのだった。

言いつけを守って家のそばで遊んでいたというのに、安全でなかったじゃないかと心の内で責めながら。
ごしごしと手を洗い、口をすすぎ、着替えをしているのに、異変すら感じてはくれないのかと、心の内で怒りながら。

とても怖かったはずだけど、泣いたりはしなかった。

12月のドラマ、涙をためるガラスのコップ

子ども時代のわたしは泣き虫だった。とっさに言葉が出てこなくて、代わりに涙が目からこぼれるのだ。
「なにかっちゃー泣いて」と呆れながら、父がお酒を飲んでいたガラスのコップをわたしの頬に押し付ける。
「涙がもったいないから、コップに貯めておいて嫁にいくとき持っていけ」というのが、父のお約束のセリフだった。

その当時は、年末になると大型の時代劇がテレビで放送されたものだった。「忠臣蔵」とか…その年の12月は、たしか「白虎隊」を家族でこたつにあたりながら観ていたと思う。クライマックスが近づき、わたしは自害する少年たちの姿に泣きそうになって、うつむいて家族の視線を避けた。
泣いていることに気づかれたくないと思った、というくっきりした記憶。

そうしていつの間にか、涙をためるコップが登場することもなくなった。

母と子に、特別な絆なんてあるのかな

たぶんあの年、わたしはぱっかーんと自我に目覚めた。
まるでへその緒が切れるみたいに、わたしの心の何かが、父母から離れた。『天空の城のラピュタ』の映画の中で、ドーラたちの海賊船からパズーとシータが乗った小さな凧が離れ、襲撃されて糸が切れてしまったみたいに。

そうして、その距離をもって、母を憎みさえした。

さて8月、わたしの子どもが「生きるのがつらい」と言って泣いた。
わたしを憎々しげに睨みながら、泣いた。

まるでタイムマシンに乗って、あの頃の自分に出会ったようではないか?
遠い夏の日に母に抱いた憎しみが、ブーメランのように大きく弧を描いて今、自分に帰ってきたみたいだ。

自分の命より大切な子ども。
この子のためなら死ねると思ったことも、この子のためにまだ死ねないと思ったことも、あった。
でも、そうか。

母と子は別々の人間だから、どんなに辛そうでも、身代わりに引き受けてやることができない。気持ちを分かってあげることさえ、こんなにも難しい。

そんな時、憎まれることが、わたしにできる仕事だったとは。
想像もしていなかったな。

心の奥に長いことしまってあった、あのビリジアングリーンのワンピースの呪いは、もうきれいさっぱり片付いた。

もうすぐ9月も終わり、ひんやりとした空気が肌をなでる。今夜は好物のトマトスープを作ってやろうか。

力の限り呪われてやろうじゃないか。

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