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小説「耳を喰む」

「耳を食べてほしい」と、すみれさんは言った。

退屈な飲み会をこっそり抜け出した夜。地下街へとくだる入口で、すみれさんを見かけた。先ほどの飲み会に確かにいたはずなのに、僕らはひとことも会話をしなかった。でもすみれさんが部長のグラスに笑顔でお酌をする姿は見ていたし、それをみんなで「すみれさん、ハズレ席引いたね」と遠まきに見ていた。

地下通路のくすんだ蛍光管に照らされたすみれさんの横顔はぼんやりと上の空で、僕はその虚ろな瞳に少しだけどきりとした。

「すみれさん」
僕が声を掛けると、振り向いたすみれさんはいつものすみれさんで、僕はその、寒さに赤く染まった頬や耳たぶがまぶしかった。

飲み直しませんか、と誘ったのは僕のほうだった。すみれさんがお気に入りだと言うバーに行き、薄暗い店内で、僕はビールを、すみれさんは赤ワインを飲んだ。くるくるとグラスを揺らしては澱を眺めるすみれさんは子どもみたいで「ここね、お気に入りなの」と繰り返し言った。行きつけではなく、お気に入りと言うすみれさんが、なんかよかった。

程よく酔っ払った僕たちは終電を逃して、そのまますみれさんの部屋へ行った。

玄関でうつむいてブーツを脱ぐすみれさんの細い髪が、ゆらゆらと揺れる。その髪をこころもとなく引っかける、みみたぶ。

寒さではなくお酒に染まったすみれさんの耳たぶは、さきほどよりふんわりと薄く桜色に染まり、柔らかそうだった。


僕はたまらず、その薄い肉の花弁に触れた。
すみれさんの耳たぶは見た目に反してしっかりと肉が詰まっていて、でもその冷たい弾力に僕の心臓はどきどきと脈打った。

それはそれは、とても早く。
それはそれは、とても良くない感じで。

耳たぶを触れられたまま、すみれさんが僕に聞く。
「つめたくない?」
「つめたくて、気持ちがいいです」
ふにふにと、僕はそれを捏ね回す。

今度はすみれさんが、僕の耳たぶに触れた。ひやりとしたのが、自身の耳たぶなのか、すみれさんの指なのか分からなかったけれど、耳もとを触れられるくすぐったさに、僕は小さく首をすくめた。
「…いや?」
「…いやでは、ないです」僕は答える。

すみれさんの薬指に収まる指輪が時折きらりと光る。視線を感じたすみれさんが「ああ、これね」と言う。「大丈夫よ」と、了解したように言う。

何がどう大丈夫なのかは分からなかったけれど、すみれさんの言う大丈夫よ、は不思議な安心感を伴って、僕をとても稚拙で、大雑把で、大胆な気持ちにさせた。お酒のせいも、少しはあったかもしれない。

「耳を食べてほしい」
すみれさんは言った。
望みどおりに僕はすみれさんの耳たぶを口に含んだ。耳たぶは口の中でふにゃりと形を変えたが、すぐに元の形に戻ろうと、僕の口内で弾け、舌を絡め取る。そのたびにすみれさんが、聴いたことのない声で鳴くものだから、僕は時折歯を立てて、繰り返し繰り返し、彼女の耳を虐めぬいた。

十ほど歳の離れた、そこまで仲良くもない会社の先輩に、僕は初めてみたいに夢中になって、気付けば空は白み、すみれさんが起きる前に僕はそっと、ベッドを抜け出した。すみれさんの耳たぶはすっかり本来の温もりを取り戻していた。

着替えて外に出るとアパートの錆びた階段の手すりにはところどころ霜が降りていて、吐く息は濃く白く、確かな冬の朝を連れて来ていた。

すみれさんの抱えるこんな、霜のような澱のような、そんなもの。それを少しは溶かしてあげられたのだろうかと、そんなことを考えながら、僕は溶けた霜で濡れた右手をジャケットでごしごしと拭いて、駅までの道をひとり、歩いて帰った。
 


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