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小説「女神の結婚」

「ねぇ、その髪さ、和式でウンコする時どうしてんの」

サチの髪は長い。いや長いどころの話ではなく、おしりをすっぽりと隠すほど、それはそれはとんでもない長さである。サチには光輔という恋人がいて、ふたりは吹奏楽部。サチはピアノで、光輔はコントラバス。ふたりはどこへ行くのも一緒。

サチは寺の娘で、光輔の家は地元の名士。
サチの家の大檀家。

部活のない水曜日に、サチは音楽室でピアノを弾く。その隣で、サチの髪を愛おしそうに撫でる光輔。そんなふたり。

「簡単よ、こうやって首に巻きつけて、あとはしゃがむだけ」

たまたま席替えで隣同士になった。サチとわたし、性格は正反対。でも不思議とウマが合った。

高校を卒業し、わたしが上京してからはなんとなく疎遠になった。結婚式の招待状が届いた時は驚いた。まさかとは思ったけれど、何度見てもやっぱり相手は光輔だった。

式場は地元に唯一ある小さなチャペルで、懐かしい顔ぶれにみんな同窓会気分。でもみんな気付いてる。サチの家は寺、なのに教会婚。光輔の家の力。

仰々しく開かれた扉から入場する光輔。高校時代から何も変わらず、へらへらとした軽薄な笑みを浮かべ、同級生から茶化されている。

サチの入場。わたしは息を呑む。

おしりをすっぽり隠していた長い髪は嘘のように短く、後頭部は刈り込み、前髪はおでこの生え際に少しだけ。友だちは驚いて黄色い声を上げている。

でも、わたしは。

何やら違和感。目の前の子は、ホントにサチ?
…ああ、でも、とてもきれい。
高校時代とは全く違う、生き生きと、美しいサチ。

わたしは硬い椅子に背を預ける。神父の説教がするすると耳をすり抜けていく。

サチと初めて話した日。
サチが何かを言って、…あれは、なんだった…?

「知ってる?女神の話」

サチの声が聞こえる。

…そうだ、トイレだ。
トイレの話を、わたしが聞いた。

「ねぇ、その髪さ、和式でウンコする時どうしてんの」

気怠い暑さの教室で誰もが汗をかくなか、異様な長さをもってしてもなおサチが涼しげな顔で本など読んでいるものだから、わたしは声を掛けた。

退屈だった。友達になろうとか、そんなことを考えていたわけではない。ただの興味本位。

読んでいた文庫本から顔を上げたサチは、わたしを見る。

「簡単よ。こうやって首に巻きつけて、あとはしゃがむだけ」

そう言って文庫本を開いたまま机に置き、その長い髪をくるくるとマフラーのように自分の首に巻きつけた。

「手を洗う時までこうしておくの」

黒い髪の毛の中でサチの白い顔だけが浮かんで見える。

うける、お化けみたい。
でしょう。
みーんみんみん。蝉が馬鹿みたいに鳴いていた。

目の前のサチは確かにウエディングドレスを身に纏い、神父の説教を聞いている。それなのにわたしだけひとり、昼休みの喧騒の中にいる。

「手を洗い終わったら、わたし髪の毛で手を拭くの。石鹸もハンカチも、使わない」

「え、汚くない?」
笑いながら私は言う。

「いいのよ」
サチは確かにこう言った。


「だって、光輔が触るんだもの」

どういうこと、と聞く前に鳴るチャイム。
バタバタと生徒たちが走って席に戻る。

「知ってる?女神の話」

サチはわたしに顔を寄せ、耳元で囁いた。

「幸福の女神には前髪しかないんですって。後ろ髪がないから、捕まえることが出来ないって」
「へぇ」
「わたしは幸福を捕まえる。そのためなら、なんだってくれてやるわ」

サチの目が、悪戯っぽく光る。

その時、サチがはっきりと言い放った。
「誓いません」

どよめく会場でサチは振り返り、突然持っていた大きなブーケを頭上に放った。宙に舞い、ほどける、白い花のブーケ。

カサブランカ、かすみ草、カラー、トルコキキョウ。
舞い散る白い、花。花、花、花。

みなが目を奪われる。しかしわたしはサチに釘付け。
白いウエディングドレスをたくしあげ扉へと走り出す、女神の姿に、わたしは釘付け。

光輔が手を伸ばす。
が、少し遅かった。

彼女にはもうその長い髪の毛はない。

わたしは立ち上がり、叫ぶ。
「サチ!」

その声にサチは一度、振り向いた。

わたしは思わず、持っていた白いハンカチをサチへと放る。ハンカチを受け取ったサチは、ニカリと笑って、そのまま走り去って行く。

その後の女神の行方を、誰も知らない。


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