本への愛を語る
私は自他ともに認める内気な性格だ。
その証拠に「懇親会」が死ぬほど嫌いだ。
勝手知ったる職場の「懇親会」ならまだしも、知らない者同士の「懇親会」など最悪だ。
「早く帰りたい」「一人になりたい」と、強めの妖怪を封じ込める呪文のごとく毎回100万遍は唱える。早く封じ込めの念が効いて地球上から永久になくなってしまえばいいのに。
そんな重度の内気ライフは今に始まったことではない。
この世に生まれ落ちたときからの生粋のやつだ。
この前、HSP(Highly Sensitive Personの略で、生まれつき敏感で、周りからの刺激を過度に受けやすい「繊細な人」のこと)診断チェックをしたら、なんか凄まじい数値を叩き出してしまった。
TOEICやなしに。TOEICで叩き出したかった。
今、本題からはるか遠いところを走っていることは承知しているが、あいやしばらく。もう少しだけこの脱線に付き合ってほしい。遠回りで見る景色を楽しんでほしい。
子どもの頃は、大人になった今よりもずっと生きづらかった。
2年に1回のクラス替え、席替え、遠足、運動会・・・これらのイベントは、色んな人間関係を築いて、仲良くすることを学んでほしいという大人たちの温かいメッセージなのだろう。が、内気な私には地獄だった。
そんなこんなで親友Aに出会う小4まで、友だちがいなかった。
小学校生活で友だちがいないとどうなるか。
めちゃくちゃ暇。
登校後から授業が始まるまでの時間、休み時間、給食の時間・・・授業中以外の時間が一切合切暇。
暇すぎて、小2では禅問答みたいなことをして過ごしていた。
「欲」とは何か。無欲になることは良いことなのか。
こんなお題を自分に出して、その答えを1年くらいかけて導き出すみたいなことをしていたトンデモ系内気っ子小学生だった。
ただ、禅問答だけでは広大な時間を埋めることはできず、仕方なく読書をし始めた。
偉人の伝記から始まり、コロボックル物語シリーズ、クレヨン王国シリーズ、霧の向こうの不思議な町など、宝物のような本に出会った。
私にとって本は、初めこそ膨大な時間を埋めるためのツールであったが、いつしかその世界にのめり込み、親友のような存在になった。
狭い世界で生きる私を、観たことのない世界へ連れて行ってくれ、感じたことのない感情に陥らせてくれる存在だからだ。
私の大好きな浅田次郎氏は言う。
小説は、崇高な芸術作品ではなく、エンターテイメントだと。
物語の世界に没入している時間だけは、辛い日常生活をいっときでも忘れさせてくれるものだと。
当時の私にとって、本はまさしくそんな存在だった。
小4で親友A(←人間)に出会ってから、私の人生は一変する。
近くの原っぱに冒険に行ったり、近所の野良猫に名前をつけて世話をしたり、その野良猫が駆除されて落ち込んだり、授業中笑いすぎて先生に立たされたりした。
本では感じ得ない経験・感情がそこにはあり、親友という何にも代えがたいものがこの世に存在するのだということをまざまざと思い知ったのだった。
生身での体験や、そこで受け取る感情ほど素晴らしいものはない。
それは確かにそうだろう。
ただ、それでもなお、私は本が大好きだ。
自分一人の人生では到底得られそうにない経験が、感情がそこに詰まっているからだ。
本は、軽々と時空を飛ぶ。
ある時は、蝦夷(えみし)の阿弖流為(あてるい)や母禮(もれ)の脳になって坂上田村麻呂と敵対しながらも奇妙な信頼関係を築き、
ある時は、1000年後の日本で超能力を身に着けて、バケネズミの脅威から逃げ惑いながら闇に葬られた歴史を紐解き、
ある時は、ロンドンのヒッコリー・ロードのとある寮で起こった殺人事件を灰色の脳細胞を使って解明する。
読書をしているとき、私は色んな登場人物たちの脳みそに入り込み、その人の人生を生きる。
そこには、自分の脳みそでは到底考えつかない発想がきらめき、とんでもない感情が沸き起こる。
この体験を「豊か」と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。
今はすっかり日常生活で生きづらさを感じる機会は減ったし、その後出会った少ないが貴重な親友たちとも昔ほどの頻度で付き合うことは減ったが、それでもなお、今でも私にとって読書時間は至福のときである。
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